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Quoraを観るとバカになる証明!デマ回答サイトQuoraに騙されるな!Quoraのデマゴーグを晒す!パート1

どうも、百田尚樹のカルトやっとります。

はてさて、みなさんはQuoraというヘンズリデマゴーグサイトを御存知ですか?
このサイト専門家があなたの質問に正しい回答をしてくれる!という触れ込みで話題のとんでも電波系デマサイト。
Yahoo!知恵袋の回答期限がないだけのパクりサイトだ。

さて、その実態はバカどもがデマをたれながすだけのオナニー空間でありQuoraをやると知能が低下すると判明。

さて今回はそんな悪質デマサイトのQuoraのデマ回答を晒していこう!

お馬鹿さんによるデマゴーグ

近代とポストモダンの違いを聞かれて、そんなのないってアホか?
まず近代とか近世とか中世にしても、それは観念であって、近世の時代に近世という客体的なラベルが貼られているのではない。

だからポストモダンどころか、中世や古代もないといえばない。解釈の問題といえる。

また、英米系哲学の一派からすればポストモダンはある意味においてはないのかもしれない。しかしこれは一般的見解ではなくかなり無理がある。
なにより質問の回答として違いを聞かれているわけだから成り立っていない。

僕がいいたいのはなんでこのアホは、ポストモダンも近代も何も知らないのに、ググった知識で引用までして知ったかぶりでデタラメな回答をするのか?である。
Quoraはググった知識で知ってることを装ってデマゴーグをたれながすバカ回答で溢れている。しかもそれを指摘しても一切、とりあわない。

このバカ回答がトップに出てきて、まともに訂正されないQuoraのヤバさを体感せよ。ちなみにぼくが回答しても検閲されデマゴーグに絶対に勝てない。

さてきっちりここで解説させてもらう。

近代とポストモダンは思潮としては明確に異なる、こんなのは常識であって、これを否定することはいくらなんでも不可能である。

思想としては近代とポストモダンは事実、別物として存在していて、その違いも体系的に論じられているわけだから、この事実をないというのは背理である。ポストモダン思想の内容はそもそも反近代であって、ポストモダン思想は論文という形式で残っているし産み出されているから、これを、ない、というのは背理である。

どの意味でないといってるのかを示さずにただポストモダンはない、というのはナンセンスであって理論的に成立しないということ。だから回答として成立していない。

そしてアートに関しても、一般にモダンアートとされるものはポストモダン思想の影響下にあり近代とは全く意図が異なる。

まずこの自称学芸人の戦犯は、モダンアートと近代美術をごっちゃにしていること。本当に呆れる。なんで基礎教養もないのに回答してんの?
この人の回答は他のもめちゃくちゃなんだよね。ググった知識で知らないことにデタラメな回答するのやめてくれ。

バカのバカさを理解するため、最初に常識を簡単に提示しよう。

まずポストモダンとの対比において提示される近代とは、デカルトーカントーヘーゲルの系譜にある自由な市民社会、資本主義、およびその理念を示す。

さて近代を哲学的に整備したのはこの三人だ。ここにルソー、ホッブスなどを加えることもできる。
また近代とは心理学的には神経症の主体を意味する。

つまり近代は、フランス革命以後の世界であり神と王制の終焉を象徴的始発点とする。

したがってアートでいえばルノワールのムーランドラギャレットなどの印象派の仕事に近代は代表される。
というのも王政や宗教の時代では、西洋美術は宗教画と貴族の肖像画の二つしか存在しなかったからだ。

それが王と神なき時代を迎え、ムーランドラギャレットに典型されるように絵画は自然の景色や庶民の輝きを中心的主題とするようになる。

それまで庶民は労働によって搾取され、余暇をもたず娯楽もとぼしく王や貴族、宗教家や神こそが主役であった。

しかし資本主義は庶民を豊かにし、ムーランドラギャレットのような教養的で文化的な生活を庶民にもたらした。したがって万人の自由を解放する近代は人中心主義の時代ともいわれる。
庶民が絵の主題となるとは近代の市民中心主義を示す。

つまりルノワールやモネ、ドガのアートは自由の解放と人中心主義における普遍的美の追及にあった。ここに近代美術の意がある。

なお美術史における近代と現代の境界は曖昧とされる。
しかし思潮的観点からはあるていど境界を定義することは十分に可能である。

さて、ではモダンアートとは何か?
モダンアートのモダンとはまず近代のことではない。バカ回答者は勘違いしているが、モダンアートは現代アートと呼ばれるもので、そもそもモダンアートのことをポストモダンと呼ぶ。

ポストモダンとはこの場合、反近代運動のことである。これはデリダに代表される相対主義的な形式論理主義ともいえる。

さっそくポストモダンを確認しよう。
20世紀も後半、近代社会の制度はその矛盾を露見しはじめる。
たとえば資本家による富の独占、ネオリベによる共同体の解体、ナチズムといった今日的問題である。

近代制度、とりわけ資本主義が生み出すこの矛盾をうけて、反近代思想としてのポストモダンは立ち上がった。ポストモダンとはこの意味で時代的な要請の産物である。
またこれは外在的なポストモダンの発生論となる。
僕の自説では、この要因と連動しつつもこれとは異なる近代がもつ内在的要因によってもポストモダンは要請されたがそれについては割愛する。

ではアートを確認しよう。ロスコだとかの典型的モダンアートでは、ルノワールなどの印象派における近代賛美の意志は全くない。

つまり初期印象派にあった普遍的美の追及、美の合意形成というアートのミッションは完全に放棄されている。

そこでは、既存の美(普遍的美)の否定だけが美の根拠となる。この美術における否定としてしか規定されない美、欠如としてしか位置付けられない美(普遍)の形式は、もちろんデリダの脱構築思想と相同性がある。

まずここに個より普遍への合意をめがけた近代美術とポストモダン(モダンアート)との最大の相違がある。普遍を目指す近代の否定思想こそがモダンアートなわけだ。
たとえばデュシャンのレディ・メイドは解りやすい。レディ・メイドとは単にこれまでの美のあり方に対するアマノジャクとして提出されているに過ぎず、ポジに自身の美の正当性を主張することができない。
だからモダンアートとは純粋なネガ(否定)の運動に過ぎない。したがって懐疑主義をベースとするポストモダン思想の全き美術版なのである。

ロスコの赤のベタ塗りという資源ゴミ以下の落書きに100億とかのぶざけた値札がつき、しかも、それと同じ絵を書いても、そのときにはそれは既存の美になっているので、これの否定としての美をうちたてねば価値が認められない。

これが現代アートの基礎理念である。赤の美しさは、本質ではなくベタ塗り=ゴミが既存の美を解体するという点で美の脱構築として価値が与えられているに過ぎない。

だからモダンアートは、いっさいの美の基礎づけの否定であり、根なし草に過ぎない。これのどこが近代美術と同じだというのか?

モダンアートにあるのは強迫的否定の衝動だけであり、何も基礎づけることがない。

このような否定構造を否定神学的構造と呼ぶ。
またこれはカントが理性を根源や全体を目指す特徴をもつとしたことに密接に関わる。

単一の欠如を晒すだけの否定神学(モダンアート)とはニュートン時間における始点の不可能性によって象徴界(客観認識)を解体する帰謬論に他ならない。
デリダを契機とするポストモダンは客観しかないと言う口で、同時に、客観はない、という不毛な言説に他ならない。

専門的なことをいえば、このような否定神学構造をこそ近代である、ということもできるのだが、かなり話が長くなるので本格的議論は割愛する。ちなみに割愛してるだけで僕はいくらでも細かく理路を明瞭な言葉で解説することができるので、説明できないから逃げているわけではない。

いずれにせよ、ダリなどのシュールレアリスムはモダンアートに属するが、そのアートの賭金もまたポストモダン思想と切り離せない。

ダリの絵画がパラノイアクリティックと呼ばれているのは周知だろう。これはラカンのパラノイア論からきている。

事実、ダリはラカンの論文を引用して自身のアートを正当化したりしていた。簡単にモダンアートの代表格、ダリの絵画の要諦を紹介し近代美術とモダンアート、近代とポストモダンの相違を確認しよう。

彼の作品は、隠喩の欠如として描かれる。そのため象徴性がなく、むき出しとなる。これは抑圧がない状態ともいえる。
つまり近代的アートであれば、ライオンが描かれればそれは力や王の象徴、という具合に描かれた表象は、なんらかの別の意味(表象)を隠している。この意味表象にライオンなどの別の表象を上書きする心理的機制を抑圧とか隠喩とよぶ。意味の本体は表象との関係の側にあり、しかも関係が表象として対象化されているのだが、これについても割愛する。

ダリはこの抑圧であり隠喩を排除することで作品をつくる。だから描かれた表象は、それ以上の意味をもたない。
ダリはハイデガーでいう意義連関から脱連鎖した無意味の表象、外傷的な表象を描き出す。
それでいて彼の描く表象には意味の二重性がある。
たとえば木に干された時計はタオルと時計が重なっている。これはパラノイアが普通に文章を読解しつつ、そこにそれとは別に関係妄想(とんでも陰謀論など)を抱くあり方を示している。だからダリは自らの技法をパラノイアクリティックと呼ぶ。

ここで並走する意味は決して普通には繋がらず、むしろ妄想(空想)の側が一般的解釈(客観)を食ってしまう。
ここでは存在論的差違としての欲望の構成が問題となるが、きりがないのでこれも割愛する。

パラノイア論を本格的に話すとこれまた長くなるのでそれも割愛する。ラカンのパラノイア論はそれ一つでカント哲学のかなりを説明できるくらいのボリュームがあり説明の骨がおれる。

さて割愛しまくったがダリのまとめに入ろう。
ダリのアートでは神経症の構造=ムーランドラギャレットなどの印象派型の構造はとらない。

モネとかルノワールとかの特性を精神分析で示せば、それは個人的で単独的な経験から普遍的な美の表象を取り出す弁証法構造にある。
作品は具象化するやいなや、つねに不足を生じ描きつつける運動を促す。これを弁証法と呼ぶ。
対するポストモダンの場合は、作品に美を託すことを最初から放棄して美の不可能性を暴きたてることを美として規定している。

近代美術の構造はヘーゲルのアート論とは反するのだが、それでもヘーゲル的である。
ヘーゲルのアート論は、表象のレベルにとどまり実体化を被るアートは、近代においてその役目を終えるという感じだったはず。

また近代美術はポストモダンのデリダが声と現象という論文で的にかけた近代の申し子とされる現象学のアナロジーをなすといってもいい。

現象学とは個人の主観的体験の内省によって、普遍的なるものの確信条件を取り出す内観法のようなものである。

だから個々の美の個人的体験から、普遍的美を取り出そうという印象派の仕事は現象学的、ヘーゲル的である。

そして作品の不満足から普遍性をめがけるあり方が神経症による隠喩の効果であり、だから近代美術は神経症的で、ポストモダンのダリは神経症を否定して弁証法を制止させるアートとしてパラノイア的となる。

アートはさらにダリから発達障害へと移行し、これはヘルダーリン→ロイスキャロルへの文学の変遷などの病碩学から強力に裏付けられる。
詳しく示すとかなり大変なので詳細は割愛する。

十全な解説は、音声中心主義批判とかアルシエクリチュールだとか色々と出てきて読者に理解させるには長すぎて難しいのだが(理屈そのものは簡単だが体系的に長い)、近代美術とモダンアート、近代とポストモダンがどれだけ違うかは明らかだろう。

美術は、ポストモダンなどの思潮から読解する場合、すこし難しい。
なので美術は、このバカな回答者がいうようなアホなものではない。

少なくともルノワールとロスコを同じ近代にくくるようなバカ回答が論外なことはこの記事の簡易的解説でも十分理解できるだろう。

Quoraのデマの流布はいい加減にしてほしい。
Quoraの有害性を拡散し、デマサイトQuoraの利用を控えるようにしよう。

長くなったからパート1にするけど、これからも定期的にQuoraのアタオ回答を晒してイクッ!

本当に酷いゴミサイトですよ。
そのうち晒すけど、デリダに関する回答とかさ、マジでお前それChatGPTなのバレてるから死ねよってなるものもある。

ChatGPTで回答してるアホ、バレないとか思ってんのか?となる。
明らかに根っこを理解してなくて、教科書的なカッスカスの表面をなぞってて呆れる。
無文脈的一般論のバラバラの記述の束でしかない。

本当に腐ってる。
なんというかバカ回答あるのはかまわないけど、まとまな回答がバカ回答に絶対に勝てない仕組みになってるのがヤバい。
権威あるサイトを引用しとけば、それでエビデンスがあり信頼性が高い!とか思ってそうで怖い。

学問をなめてる有害サイト。
Quoraの回答は人文学分野ではデマ100%!と発表しとけボケッ

Quoraの人文学の回答で優れたものを僕は観たことがない。
そして、このサイトはモデレーターという論文も読まない知的障害のアホがいちいち人に喧嘩を売ってくるので買うことにした。

Quoraを廃止させることでデマゴーグの拡散を予防しよう!
さぁみんなもアンチQuoraだ!

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