お盆です。両親・親族の被爆体験(8月6日)
お盆です。
私の両親、父方の祖母、母方の祖父母は天国で楽しく過ごしていることでしょう。
父方の祖父を除き、みんな広島市で被爆/被曝したので、記録のため聞いたことを記します。
父方の祖父母、父はもともと京都に住んでいましたが、祖母はある事情で第二次大戦前から広島市に住んでいました。原爆投下時は爆心地から1km辺りに家があったためその下敷きになり、背骨を降りました。祖母は崩れた家から抜け出し浅野藩別邸の庭園(現縮景園)に逃げましたが、火の手が迫ってきたため、庭園裏の川に逃げ、夜明けまで川に浸かっていました。数日後、避難所の一つで祖母が救護を受けている所を京都から駆けつけた父が見つけました。間もなく知り合いの陸軍の人達が家を建ててくれ、そこで生涯の殆どを過ごしました。背骨の一部がありませんでしたが、しっかりとした足取りで歩き、男勝りの強い祖母で、八十歳の時「もう一花、花を咲かせる」と抱負を述べていました。八十代まで生きました。父は入市被爆をしましたが、放射線障がいがどの程度であったかは聞いていません(下記リンク「放射線による被害」をご覧願います)。明るく奔放な性格でしたが被爆当時のことは一度も口にしませんでした。七十代まで生きました。ちなみに父方の祖母、母方の祖父母、母や叔母は被爆/被曝していない人よりも病気をした数は随分多かったと聞いています。
母方の祖父は会社の自分の席で被爆しました。爆心地から1.2Kmだったと聞いています。鉄筋コンクリートのビルでしたが、爆風で細かく砕け散ったガラスがビルの中にいた人々に突き刺さり、祖父も全身にガラス片が突き刺さりました。亡くなるまで頭に刺さったガラス片を全て取り除くことはできませんでした。放射能障がいが酷かったそうですが、七十代まで生きました。祖父の同僚で放射線を窓から直接浴びた方々の被爆/被曝後の健康状態は壁を背に座っていた祖父よりも酷かったそうです。爆心地近くに住んでいた祖父の親族は被爆時全員亡くなったと聞いています。祖父は牛肉の脂身を七輪で焼きながら晩酌をするのが好きな寡黙な人でした。祖母と母は爆心地から2Km離れた自宅で被爆しました。家は爆風で倒れ二人とも下敷きになりましたが、母は丁度布団の下になり大きな外傷はありませんでした。祖母と共に緊急時の集合場所と決めていた場所に避難しました。母は同日病気の為、勤労動員をお休みしていましたが、同じ学校の生徒、数百人は爆心地近くでの作業だったため数人を残し即死だったそうです。私の宿題のため、一度当日のことを話してくれましたが、話す時の辛い様は今も覚えています。日本舞踊をお弟子さんに一生懸命教え、お弟子さんに支えてもらっていましたが、酷く孤独だったろうと思います。七十代まで生きました。祖母はとても優しい人でしたが当時のことについては何も話しませんでした。叔母は勤労動員で働いていた逓信局(現NTT)で被爆しました。祖父と同程度に傷を受け放射線を浴びたと聞いています。放射線障がいが酷かったそうですが、今も元気に生き私を励ましてくれています。母方の家族は同日中に全員、事前に決めていた集合場所に辿り着くことができ、祖母の実家で一定期間過ごし、その間、祖父と叔母は症状の重かった傷と放射線障がいの治療を受けました。
身内のことながら、両親、父方の祖母、母方の祖父母は強く生きたと思います。