「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第8話
「水が濁れば、魚は住処を奪われたも同然。防ぐには、濁りの元を取り除かなければならない。だからこそ災いを防ぎ、国主は潔白でいられる」
訥々と語る男の声は低い。
角にくくられたカンテラが、軽妙な音を立てて揺れていた。
牛の歩みはどっしりとしているが、大きく踏み出す度に、背に乗るアコラスの身体は大きく揺さぶられた。
アコラスは必死にしがみつきながら男を睨む。
国主が取り除きたい濁りがあるというのなら、宗派としての彼らのことだろう。
「次は誰を呪えと? 法師プランツをというのなら、関わるつもりはない」
「クズめ。おのれの命が惜しいのか」
突き刺さるような目であった。胸くそ悪いとでもいうようなその目が、今にもアコラスを焼き尽くそうとでもするようだった。
法師プランツが一言、国の道を閉ざすおそれがあるというのなら、国主はそれに逆らえない。その地位を盤石なものにするために、アコラスをつかってさんざん権力を毟りとったのだ。だからこそ、その男が簡単に手放すわけがなかった。
アコラスは唇を噛みしめる。
挙げ句の果てに、プランツのもとから出生簿を盗み出せと脅すつもりに違いない。重臣や気に食わない人民を呪えと言うのなら、プランツから逃れようと決意した意味がない。
身体中が、炎の赫々とした熱気を思い出す。骨が軋み、浅く、薄れていく呼吸の苦しさを、アコラスは忘れていない。
命が惜しかった。
その背にのし掛かる命の重みが、昼間でさえも夢魔となってあらわれて、魘されているのだ。
「人道を逸れたお前が、人の価値をはかれるものか」
鈍い光りを蓄える男の眼差しから視線を逸らした。
「都まではおとなしくついていってやる。その後のことは俺の問題じゃない」
ビオラは二人の会話を傍にして、潺の音に気を配りながらじっと黙り込んでいた。
思い返せば、アコラスが素直に従ったことをもっと疑問に思うべきだったのではないか。そう思い始めていた。のこのことついてきたのは、誰かと勘違いをしているからではないか、と。案内人を向かわせるとでもいわれていたか。
もし彼が、別の用事で都へ行く都合があるのだとしたら、誰と合流するつもり――。
じわりと滲む汗がしたたった。まさか、ペチュンではないだろうなと、顔を上げる。
迫り立つ断崖に挟まれては隠れる場所などない。
「法師! いったん川を上がりましょう!」
咄嗟の叫びに、男が目を剥いて振り返る。
――ゴッと天を迸るような、重い音だった。まるで雷霆。そう思い、急な雷雨を案ずる男のすぐ後ろに、突如と大きな黒い影が降りかかる。それがなにか、と理解するより先に、間髪を入れず、川の水が激しく押し上げられた。巻き上がる高波が水牛を越して彼らをのみ込んだ。
「法師!」
ビオラの声は轟音にかき消された。
波頭にもまれ、渦に引き込まれかけたアコラスを咄嗟に掴むのは、ペチュンである。
高く迫りくる濁流が、河岸の淵を勢いよく舐めていく。アコラスは瞬間意識を手放しかけて、はっと空気を喘ぐ。滝のような水を滴らせながら激しく咳き込んだ。目は激流にのみ込まれる二人の影を追い、身体は思わず後を追いかけた。
しかし、襟首がひっかかる。
「離せ! 早く助けないと死んでしまう!」
首に絡まる手をはたき落とそうとペチュンを睨みつける。
「そそっかしいな。奪われちゃ、俺がどやされるところだった」
穏やかな口調で呟いて、なれなれしく頬を撫でつけるペチュンは、流れていく人影など見もしない。その薄情ぶりに、カッと憤る。胸ぐらを掴み上げた。
「お前に従うのはあれで最後だと言ったはず!」
震える拳を非力な、とでも思ったのか。彼はにやりと笑みを浮かべ、汚く生える無精髭をなでつけた。
「まあ、いいさ」
その素直さを奇妙に思う暇もなく、アコラスは開放されるとともに枝を手折り、咄嗟に落ち葉を拾って川の中へと身を投げる。
激流は糸が絡まるように身体の自由を奪う。二人の姿は川下へと押し流されていた。
アコラスの掴んだ枝は魚に姿を変じて水を掻き、手に握った葉は一本の縄にかわっていた。
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