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「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第11話
濁った声である。水車小屋の傍を流れる川と同じ、腐ったにおいが鼻をつく。
「――なに」
ペチュンの紹介でやってくる依頼人のほとんどは、見えない何かに怯えるような小心ものばかりだった。しかしこの男は違う。恐ろしいほどに禍々しく、積み重ねた激しい憎悪を身のうちにひめている。煙のように広まっているアコラスの噂さえも気にならないらしい。
「面白いまじないをつけているな……」
「触るな!」
氷のように冷たい指先がアコラスの項に触れ、咄嗟に声を荒げていた。
ゆっくりと息を吐き出すその吐息に哄笑が混じる。
「静かに……焦るなよ」
肌も跳ね上がるほどの冷たい手が服の下を潜り込み、骨の浮き出た薄い皮膚をなぞって首にいきつく。アコラスは青ざめた。
「おい、触るなと!」
呪いを消されれば、魔が嗅ぎつける。こんなところで魔を呼び寄せるわけにはいかない。外には大勢の人が行き交っているのだから。
「手間が省けそうだな」
「手間?」
「国主を呪え」
ひりつく喉が悲鳴を上げる間もなかった。男の指先がまじないの端に触れ、皮膚をこすりつけるように撫でつけた。その、まじないの消えていく敏感な感覚に気色ばむ。忽ち、耳に届く城門の鐘がけたたましく鳴り響く。
アコラスは草葉を掻き分け突き進む魔の気配に身の毛がよだった。咄嗟に身体を起こそうとして、男がいう。
「どうする?」
「俺に、呪えというのか!」
「国主の命は惜しいのか?」
囁く声は、アコラスの一瞬の戸惑いを言い当てるようである。どんな相手であっても呪ってきた。それが、相手を国主と知って躊躇したと彼は見抜いたのだ。
目を伏せながら、身体中に伝わっていく恐怖に指先が震えていた。
「卑怯もの!」
「蠱業を使え。そうすればまじないを書き直してやる」
通りを照らす釣灯籠の炎は激しく燃え上がり、青白い唇から注がれるような冷たい風が灯心を吹き消していく。立ち上る煙をさらい、風は入り口の垂れ幕を揺らす。窟には忽ち怪しい煙が立ちこめた。異様な匂いが鼻につく。獣のうなり声はすぐそばにまで迫っている。
「お前が連れてきたのか」
「この匂いに寄ってきているのだろう」
アコラスは弾む吐息を口にして、押し寄せてくる獣臭さにきつく奥歯を噛みしめた。膝は震え、身体を支える腕には力が入らない。
「わかったから、手を、手を離せ」
「名前はマム」
笑うように声を響かせて、彼は国主の名前を囁いた。
アコラスは開放された指先を唾液に湿らせる。掌に名前を書き付けようとして、しかし、その手はまるで見えない紐に絡げられたように少しも動かせなかった。嗚咽とともに迫り上がる恐怖心に息を忘れ、閉じた瞼の裏に浮かぶビオラの姿に嘔吐いた。
「これは証明だ。お前が今ここで国主を呪えば、命は平等ということ。お前は命を差別する人間なのか? 不平等を、お前の魂が許すのならやってみるがいい」
肩越しに男を睨み付け、アコラスは名前を書き記す。男はその手に虫を握らせ、掌ごと小刀を突き刺した。
うぅッ、と痛みに呻くアコラスの背後では、帆のように男の影が膨れていき、今に限界に達し、一瞬にして爆ぜると、その亀裂からおぞましい気配があふれ出した。それは森に蔓延る魔の気配よりも強い、禍の気である。あまりの恐ろしさに腰が抜け、アコラスは逃げ出すこともできない。
アコラスの手から鮮烈な赤い血が滴り落ちるのを見て、煙のような男が喉を鳴らした。
「――封じてしまうには、あまりにも惜しいほどの匂いだ」
恍惚と、熱い息をそそぐその声はまるで人が変わったかのようである。鳥肌がたつほどの低い響きに、甘美な感覚を呼び覚ますように艶美なもの。
男は舌先に鋭い爪を押し当ててアコラスの身体を絡め取る。舌に浮かぶ血の玉を転がすようにじっくりと首筋を舐めつけた。
爛熟した果実を味わうような舌遣い。恐怖に支配されたアコラスの身体を一瞬の痺れが駆け抜けていく。ぞわりと震え、毛を逆立てた。
「この――!」
振り払おうとして、束の間、喧噪を寂する錫杖の音が厳かに響く。辺りには静寂が蘇り、アコラスへと迫っていた魔の気配は失せていた。あの男の気配もすでにない。
「再び会えるとは、思いもしなかった」
錫杖を振るう男を見れば、降り積もった埃の下の記憶が蘇る。言葉にため息を滲ませ、柔和な顔つきを翳らせた彼の気色は、再会を喜んでいるようには微塵に思えなかった。
「マートル」
アコラスは項の熱に身体を竦めながら、冷ややかな眼差しに睨まれて視線を落とす。
決して人の道を閉ざさないことを条件に、彼から蠱業を教わったのだ。彼の突き放すような素振りには、約束を破ったアコラスを咎めているように思えてならなかった。
「法師プランツも、お前に会いたがっている」
黒衣を靄のように蠢かし、従僧らはアコラスを連れて煙の立ちこめる都の中へと消えていく。