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「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第5話
ちゃぷ……、
と、水際をうつ波の音であった。
そよぎの緩みに耳をそばだてて、ようやく聞こえてくるほどのせせらぎの音である。
岸に垂れ込める下草が、ゆったりと膨らむ水面にさらわれて大きく躍っていた。
水面は黒く、泥臭い。
その黒い渦の最中に、アコラスはいた。波間を掻き分けながら川底をさらっている。ペチュンによって投げ込まれた瓶を探しているものらしい。
春も暮れにさしかかり、早緑はより鮮やかにうつろうが、村墟は未だ、冬の寒さにしばられているようだった。
冷たい水に浸かるからだは芯から凍えて、歯をかち鳴らすアコラスの全身は、がくがくと震えている。
かじかんだ指先に息を吹きかけながら、もう一度身体を沈める。伸ばした手の先に滑らかな端が触れると、丸みを帯びたその形は目当てのものと思われた。
慌ててつかみ取り、急いで川岸に這い上がった。泥の中から引き上げられた外套は更に色あせて見え、流れ落ちる雫は流星が月夜を伝うよう。
アコラスはしばらく目を凝らしていた。
蓋の隙間から水が入り込んだらしい。雀は青い顔をしているが、息苦しそうに藻掻く様子をみれば、まだ息がある。
思わず零れた吐息が灰色の空へとうつろにのぼった。
「アコラス、どうして引き受けたんだ?」
蓋が開くと同時に飛び出す雀が、水濡れの貧相な身体をアコラスの首元にすり寄せた。
それを一羽ずつ摘まみ上げて、水露を振り落とした瓶に再び捻じ込む。三羽はけたたましい声を上げ、綿菅を突きつけて出せとわめくが、アコラスは見ていなかった。
視線の先にあるのは、荒らされた水車小屋である。
風雨を凌ぐのも心許ない小さな家。
そこに、暴虐なペチュンの影を見るようだった。
ひりひりと、肌をなめる青火に灼かれて、アコラスは唇を噛みしめる。あて場のない怒りに突き動かされ、干した薬草を手当たり次第に打ち捨て、虫を籠めた砂糖入れや瓶をたたき割る。あふれ出す虫を踏みつけた。
破片が靴の裏を突き破り、そのじくじくとした痛みに苛立ちながらも声を堪え、掌を握りしめた。
ペチュンは非天の王を殺せと言い捨てた。どうせアコラスにできるわけがないとでも思っているのだ。
優れた体格でなお、彼が呪い殺してやると吠えれば、誰も刃向かえない。人名を記した出生暮は彼ら、海蘭寺が握っているのだから。
アコラスさえ手元に置いておけば、海蘭寺に逆らう人間はいなくなる。
「クソ」
どうして引き受けたかなど、そんなもの、ペチュンから逃れるために決まっている。万が一にでも非天の王さえ仕留めることが出来れば、自由が手に入るのだから。
くわえて……。
と、アコラスは胸が潰えるようだった。
この罪でさえもが許される。そんな幻想を抱いている。
業を背負ったまま死ぬわけにはいかない。そのためにもやはり、捉えるしかないのだ。
――非天の王。
魔を退けて土地は平定されたというが、奇怪な獣は未だに縦横無尽に跋扈を繰り返し、市井に交じり、時には人の営みを得ている。魔とは奈落に落ちた死者、つまり鬼であり、獣である。人の道を遮る邪なものを一列に魔と呼ぶ。魔が仕える王は天に非ず、鬼の王。
禍殃災厄に乱れ、陰の気が重く蔓延る木立は凍り付き、壊れた草木が背高く生い茂る、その山に、雨上がりの月のごとく、澄んだ高殿の城が聳えていた。
焼け落ちたかつての寺院、鴻城である。雲南山の高峰に座る魔の根城。その伏魔殿に非天の王はいる。
蠱業を使って仕留めるか?
しかし、非天の王の名前がなければ蠱業は仕えない。国色天香の芳のごとく、王の名がしれわたっているわけではないのだから。
アコラスは自然と首に触れていた。
方法がないわけでもなかった。
この身体は生来、憎らしい性を持っている。
胎に宿ったそのときから、身に纏ろう匂いがあるらしい。
魔を引き寄せるのだ。
その性を封じるためのまじないが首にしるされている。
少しでも、指先がまじないを欠けば、魔をおびき出すには不足ないほどのいい餌になる。しかし、非天の王がやってくるのが早いか、魔に蝕まれるのが早いか。そもそも王を引きつける確信もない。
尻込みするアコラスの耳に、足音が届く。
点々と続く水跡を追って、草を踏み分け、近づいてくる足音であった。