「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第9話
――もっと、早く!
必死に追いかけるアコラスの手は水中に漂う二人の身体を抱き寄せる。素早く縄を括り付け、水牛の姿を隈なく探すが、濁った水中に視界を奪われ、ついに息苦しさに耐えきれなくなった。
岸壁の洞穴をめがけて飛び上がり、固い岩場に全身を打ち付けて転がった。痛みに呻きながら振り返り、対岸から見つめるペチュンを睨む。
好きにしろよとでも言いたげな笑みに、アコラスは背を向けた。
びしょ濡れになった衣服は重く身体にはりつき、滴る前髪が鬱陶しく雫を垂らす。
瓶から雀の羽を一つむしり取って優しく息を吹きかけると、息吹は木の芽の兆しを結び、月の露が開くように、白い花の炎があがる。水に濡れた身体は忽ち暖められた。力が抜けて座りこむアコラスと、ビオラの目が醒めるのは同時であった。
彼は途切れた意識をつなぎ合わせようとしてしばらくぼんやりと夢うつつを彷徨っていた。鈍く痛む身体を起こし、濡れた毛髪を掻きあげ、またしばらく呆然と地面を眺める。
ようやく、握りしめた手の冷たさに正気を得る。見ると、火に当たるアコラスの姿がある。巻き付けた外套の下では顔色が読めない。しかし蠱業使いの彼に助けられたのは明白であった。
横に倒れる男の顔を覗きこみ、手に触れる息づかいを確認して再び倒れ込む。
岸壁に映る炎の影に瞼を伏せて、苦く言葉を噛みしめた。
「……ビオラだ」
何が、と火に照らされた顔でアコラスが問いかける。
「名前」
呟くように応えて、ビオラは視線を向ける。
「蠱業使いと呼んで、悪かった。……アコラス」
アコラスは彼の言葉に口ごもる。艶やかな橙に染まる外套を強く握り、視線を落とした。なにか、むず痒いような思いだった。
「水牛は、助けられなかった。二人のことしか考えられなくて。……悪い」
角の取れたような声色である。しおらしい態度にビオラはふんと鼻を鳴らす。人を呪っておきながら、命を助ける感情は残っているのかと、苦い思いが湧き上がる。
「贅沢なことをいうつもりもない」
水牛さえ気にするような青年だとでも印象づけて、人の同情を乞おうとでもいうつもりか。
だが誰も、アコラスの本性など知りもしない。目にしているのは身体を覆う汚らしい外套一枚だけ。
その外套は、まるで彼の犯してきた罪を示すようであった。
錆のような罪を受け入れて改心を努めようとする彼に、一体どれほどの人がその反省を受け入れるだろうか。目について汚い外套は彼自身の汚さであり、彼の罪は彼の人格と思い誤り、罪を償おうとする度に執拗に非難を続けるに違いない。
真っ当な道へ戻ろうと這い上がる度、その手は払い落とされるだろう。彼を価値なし性質と判断する多くの人よりも、命を助けようとする心を持ち合わせていると、誰が理解するだろうか。この世にいたとして、見つけ出すのははるかに難しいこと。そしてただ隣に寄り添うことすら困難であるというのに、彼の罪とともに歩んでいけるほどの強い人間が、果たして存在するとも思われない。
ビオラは外套の下が醜ければよほど醜いものであれば良いと願った。そうすればどれほど楽に彼を罰することができるか。
濡れた僧衣を脱ぎつつアコラスの隣に腰を下ろすビオラに、落ち着かない素振りで身じろぐ彼はあまりにもみすぼらしく、哀れである。
額を覆いながら、どうやら、そんな願いは通じそうにないと悟る。いっそのこと醜悪であれば彼自身、苦しまずにすんだはず。
「外套は脱げないのか? 冷えるだろ」
「……触るな」
伸びるビオラの手が冷たい身体に触れた。
「宗派の廟にくるといい。お前の罪滅ぼしが少しでも報われるように、俺が祈ろう」
耳元で囁く声に、アコラスは唇を噛みしめる。
「海蘭寺のやつらは、俺を目の敵にしている。廟には入れない。いっても、追い出されるだけだ」
「朝来山の廟は宗派の廟だ。派閥も異教も気にせず受け入れる」
「罪人もか?」
瞼を伏せてじっと息をひそめるアコラスを、ビオラは外套ごと抱き込んだ。
「お前次第だ」
ほんのりと肌を染める暖かさであった。アコラスは膝を抱えながら、胸に抱きしめた雀の、気持ちよさげに眠る姿を見つめた。
ビオラを呼びかけるように小突くが、応える声はない。耳には彼の寝息が触れている。その鼓動が優しくアコラスの体温を押し上げて、火の粉の弾ける音はゆっくりと微睡みに引きずり込むようであった。
――――――
どれほど経ったか、外は日が落ち、雲が出る暗い夜だった。
アコラスは異常な痛みに目が覚めた。呻き声を堪える身体に脂汗がじわりと浮かぶ。神経が引きちぎられるほどの猛烈な痛みに崩れ落ちながら、のし掛かるビオラの身体を押しのけて、はっ、と、気付いてしまった。
倒れた身体は起き上がろうとする素振りもなく、重く横たえたまま動かない。
静まり返った洞の中で、頭をしめつける脈の音だけが、恐ろしいほどに打ち鳴らされていた。
痛む心臓を押さえつけ、恐る恐るとビオラの首に触れる。まるで、凍り付いた土のように冷たい。
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