「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第6話
「誰だ」
扉の隙間から柔らかな光りが差し込む。アコラスの鋭い投げかけに、革靴が答えるように扉を押し開けた。
低く垂れ込めた霞を踏みしめる、若い男である。
身に纏う僧衣は、霧の花、仙の枯骨、龍の血を水錆で煮て、夜の闇に浸した海蘭寺のもの。
星空を思わせる深い藍色の頭髪は爽やかに整えられて、研ぎ澄まされた菫の瞳は月の影を宿す。
洗練として精悍な青年。
涼しげな眼差しをアコラスに向け、彼、ビオラは重々しく踵を返した。
「……ついて来い。法師のところにつれていく」
肩越しに呟き、霞の漂う森の奥深くへと、アコラスを連れ出す。
「――老人と聞いていたが」
蠱虫を扱う気味の悪い男が、まさか二十もいかないような青年とは思い及ばなかったらしい。
杜若や菖蒲が繁る緑の淵に、思いがけず錦鱗をみたような口ぶりだった。
アコラスは瓶を手にして、男の後ろ姿に目をかけた。
重心を重く前にのせ、一歩一歩しっかり踏みしめて歩いて行く。
僧衣がはりつく腰回りは健壮で、その滑らかな骨格を見るようだった。カンテラを掲げて持つ以外、何も持っていないらしい。周囲に目配せをするような素振りもない。
一人、それもアコラスを出し抜くつもりはないとみて、ゆっくりと彼に従った。
草木は冷気に錆び付いて、枝を伝った雫が木末の先に真珠のような白露を結んでいた。
魔は風の音を嫌うという。よって翡翠の羽に風鐸をくくりつけて魔除けとし、青魚の鱗を垂らして神仏の加護を得ようとしたが、魔は水面を裂くようにして境界を破き、村境を冒して入り込んだ。
若葉も枯れ落ちる深い森の中では、すでに風鐸の音が届かない。草花の黄落した樹木に絡まる枯れ茨は、まるで金鎖のように森を巡っていた。
ビオラは視線を走らせる。
森に入った時から、胆を鷲づかみにされているような嫌な感覚に襲われていた。
じわりと耳の裏を汗が伝う。
遙か頭上に聳える鴻城から夥しい陰の気配が覆っているせいである。
高峰の寺院が魔によって侵されたとき、黄梅の花は融けてさび付き、山や谷は崩壊した。赤土を覆った雪は何百年と固く大地を閉ざし、黒々と蹲るような森は魔の気配に穢されて絶えず霞を吐き続ける。
鴻城に続く細い参道の脇に、小さな廟がひっそりと佇んでいたが、これもひどく荒れた廟だった。
閉ざされて、すでに久久の時は経ているようだった。
曇った窓ガラスから、ずるずると裂けた幕のはためくのが見え、低く立ち響む煙りに濁って、雨染みに濡れた祭壇は乾く暇もない。山陰の青さを砕いたような闇が籠もっている。
ぞっと、肌が騒ぐほどの荒涼とした廟を横に、彼らは覚束ない足取りで獣道をいく。
足下はいっそう露に濡れていた。
ビオラはカンテラを高く掲げもち、ますます濃くなっていく霧の中を照らす。
その炎が、ちりちりと火花を散らして燃え盛った。
アコラスは妙な気配に耳を欹てる。
葉擦れの音とは違う、獣が語りかわすようなざわめきが、末枯れた木立をのみ込むように迫っていた。まるで潮騒の唸りが押し寄せてくるよう。
ふと、一羽の鳥が飛び上がる。
天高く群がるその下にと視線を向ければ、引きちぎられた死骸が転がっていた。
大柄な体格に、狡猾な目。その容貌にアコラスは覚えがある。ペチュンの仲間だ。見捨てられたか、囮にでもさせられたというのか。
アコラスは閉ざした片眼をゆっくりと押し開けた。
ものの影さえのみ込む暗やみの中に、腐敗の黒影が立ち上り、糸を糾うように連綿と森の中を広がっていた。
死臭である。それが魔を引きつけているのだ。
肌は敏感に魔の気配をとらえて具に粟立つ。
生え広がる草木の間から、不気味な足音を捉えた。
「火は消すな」
咄嗟に、瓶を懐に押し込み、口早に忠告する。その声に、ビオラが駆け出すと同時である。外套に暗い森の影が落ちた。
仰ぎ見る先には、頭上で輝く獣の目がある。
牙を剥きだし、凄まじく吠える咆哮に大地が震え、カンテラの灯火が掻き消える。瞬間、一点の白い木陰に吸い込まれるようにして光りが失われた。
明かりを失うことは道を失うのと同じこと。道とは人の生きる道。道を閉ざせば転じて災いとなる。
ハッと、駆け出す二人を追って突風が追いかける。