休みと許しと個性

 VRゴーグルを友人に渡して記念祭の仕事から少し解放された。とはいっても開発は何も進んでいないし、課題は山積み。しんどい。
 とにかく休みはできたのだが、急激に発生した空虚な時間はなかなか埋まらず、頭が動かない。要するに鬱。休みができると不安になってしまうという話(というよりもキャパオーバーに働かないと気が静まらない)は聞いたことがあるが、今日ちょうどそれを体感している。でも他人に比べたら僕がしている仕事量なんてどうってことないんだろうな。
 そういえば昨日大曾根で財布を無くし、13km歩く羽目になった。そのときは特に鬱にならなかったことから外で体を動かすことの重要性が伺える。記念祭なんて忘れて、忘れて、忘れて。

 手持ち無沙汰になった時は確実に将来のためになる貯蓄をしよう。勉強。体力づくり、ベース。ああ、逃げたい。怖い。ということで今は日記を書いて文章力向上に努めるのだ。

 僕は常日頃から誰かに許しを請いてる感覚がある。親に、友達に、先輩に、先生に、神に。独りになると「こうやって生きているから僕のことを嫌わないでください」と考え込むことがある。
 要するに、嫌われるのが怖い。誰からも嫌われたくない。全人類が僕を愛して欲しい。小学生の頃はかなりませていて、友達があまりできなかったのが今も引きずっているのかもしれない。
 一方で、嫌われたいという欲求も確かにある。去年の11月ごろにTwitterを始めたのだが、当時は積極的に嫌われるような発信をしていた記憶がある。正確には、「こんな最低な自分を愛して」という姿勢の表れだった。今は人に好かれようと必死ですけどね。
 とにかく、ありのままの自分を好いて欲しい。ありのままの僕が嫌なら関わらないでほしい。じゃあありのままって何だ? と考える度、自分に芯がないことに気づく。アイデンティティとか以前に、自分に好きなものがない。「これに一生を捧げたい」というものもないし、単純に暇になったらやりたいこともない。
 自分が存在しないなら創作すればいい。簡単にアイデンティティを露出させる一つの方法として、「逆張り」がある。それを続けて今の自分があるのかもしれない。
 さあ今の僕を見てみましょう。自分を把握しきれない人間、コミュ障を無理に治そうとしてつぎはぎの身体。一方でメンタリティは何も変わらず、簡単にボロが出てしまいそう。単純に人と比べてストレスへの耐荷量が少なすぎる。

 ......と御託を並べましたが、解決策は「本気で熱中できるものを探す」ことなんだろうね。音MADまた始めてみようかな。来年の記念祭で音MADやりたいという小さな野望を持ちながら、今日もなんとか繕っていきます。

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