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継続できない自分を責めないで!それが普通だから。脚下照顧をできれば問題ない!

世の中には物事で継続できない自分を責める人がいるようです。また、自分の子どもが継続できないと叱る人もいます。しかし、継続できないことはそれ程悪いことなのでしょうか。

今回は、継続関連の記事を書きました。「継続」に関しては過去に何度も書いていますが、過去記事とのダブりはほとんどないです。最後までご覧いただければ幸いです。




継続できない人の方が圧倒的に多いことは数字が物語っている

過去記事で幾度となくしつこいぐらい書いていることですが、noteの継続率は全体の1%程度です。再開組を含めますと大体2%ぐらいになるそうです。

これは私が約12年間継続している英語・英会話学習でもほぼ同じ数字が出ています。つまり、100人に1人しか継続できないのです。そして、100人に1人しか再開できないのです。つまり、合計2%ということになります。

物事の継続はそれぐらい厳しい現実であるということを肝に銘じておきましょう。


継続できる人はなぜ継続できるのか?<私の場合>

ここからは私の憶測になります。根拠や統計は全くありません。しかし参考になる気がするので簡単にまとめておきます。

私も一応物事を継続できる方なのですが、その根本的理由は多分こんな感じになります。

①それしかないから

私には自分には何もないことがわかっています。

周りからは「いやいや、あなたは素晴らしいものを持っていますよ」と思われるかもしれませんが、私の自覚としては本当に何もないのです。

ですから、続けることとで自分の価値を高めたいのです。

私もいつかはこの世からいなくなります。そして、過去に何度も命を失いそうになりました。

それらの経験により、他の人よりも自分の人生に対する覚悟ができているのだと思います。その覚悟の強さが、物事の継続への原動力になっていると言えます。


②追い込まれているから

私は中年です。その中でも末期に属します。そのため、一人間としては追い込まれているとも言えます。

というのも、私ぐらいの年齢になりますと、いつあの世に旅立ってもおかしくはありません。

芸能人に関するニュースを見ていましても、50代でなくなっている方も意外と多いです。

ですから、私の人生はすでに死と向かい合わせなのです。つまり、追い込まれているのです。

③続けないと見えて来ないことがたくさんあるから

人は意外と自分自身のことがわかっていません。自分のことにも関わらず、自分という人間を人生の最期まで掴めずにあの世に行くことになります。

しかし、アウトプットを継続することによって、過去には不明だった自分自身のことが少しずつわかってきます。

これはその人の財産になりますので、私はnoteなどのブログをお勧めします。

なお、これは日記でも良いのですが、その際は内省や内観が必要になってきますので少し長めの内容が優れていると思われます。

④後悔をしているから

世の中には「自分の人生を全く後悔していない」と断言する人がいます。

この際ですからはっきりと言いますが、そのようなことを言う人は嘘つきです。もしかしたらキ〇ガイかもしれません(笑笑笑)。

そんなこと、あるわけがないのです、絶対に。

人間は誰でも多少は自分の人生を後悔します。程度の差こそあれ、人は自分の過去すべてを肯定的に捉えることができないものです。そこまでの人生の達人、哲人、鉄人がいたら、この記事を読んでいません(笑)。

ですから私の場合、そんな否定的な過去を肯定するかのように、継続するのです。物事を継続しませんと、その否定的な部分を補えない気がするのです。

だから、継続するためのエネルギーが毎日湧いてくるのかもしれません。

⑤最後に

一応自分なりの継続できている理由を4点書きましたが、これは現時点での私の考えです。数か月後にはまた別の考えが出てきている可能性もありますので、その点はあらかじめご了承いただきたいです。また、物事の継続は人間にとっての大きな課題ですので、今後も何回も記事で取り上げます。

継続できなくても自己卑下する必要はない

物事を継続できない時に自分自身を責める人がいるようです。しかし、その必要はないです。なぜなら、継続できないことにはそれなりの理由があるからです。

例えば、そのことが自分に合っていなかったり継続後の報酬や成果が見えなかったりした場合、挫折することは普通と言えます。物事と人との相性は必ずありますし、見返りが大きくても続かないこともありますから、ほぼ無報酬のnoteを継続できる人たちは異常者かもしれません。もちろんそれは、私も含めての話です(笑)。

ということは、継続できている方(ほう)が異常であり(笑笑笑)、継続できていない方(ほう)が普通であるかもしれないのです。

なお、「自己卑下」とは、自分は大したことのない、劣った者だと考えることです。

継続できない場合、脚下照顧が大切である

脚下照顧(きゃっかしょうこ)とは、道元和尚の言葉で、「足下を照らし、顧みよ」ということです。

つまり、「(他に対して理屈を言う前に)自分 の足もとをよく見て、自己を反省しなさい」という意味です。

自己卑下は良くないとは思いますが、自分自身を内省・内観し今流の言葉で言えば、自分自身を深掘りすることを良いことだと思います。そうすれば、そのこと自体が次に繋がることは間違いないです。

なお、脚下照顧は、自責思考に意味が近いかもしれません。「自責思考」とは、グーグルAIによれば、物事がうまくいかなかった場合や問題が起こった時に、他人や環境のせいにせず、自分自身に原因があったのではないかと反省・内省するという姿勢を持つこと、だそうです。

ただし、極端な自責思考は、それにより大きなストレスを抱えうつ病の原因になるかもしれないということです。

継続できるための活力を得るための方法とは?

それは、過去の自分の汚点を思い出すことです。

つまり、自分の過去の人生で後悔していることをマイナスとして、それをプラスのエネルギーに変えるしかないと思います。

私の継続できているエネルギーの一つはまさにそれだと思います。

後悔をエネルギーに転換できない人は自分の人生に負けているかもしれない

私は人の人生には宿命や運命みたいなものがあると考えています。そして、それらを乗り越えるために、負の体験が人生の各所に散りばめられている気がしてなりません。

創造主や神様にはまだ一度もお会いしていませんが(笑)、もしそのような人物とともに生前に今のような人生を計画していたとしたならば、あまりにも出来過ぎていると思います。

ここからは余談ですが、私が時々記事で取り上げる池川明さんの著書には、上のような人生の計画の話が頻繁に出てきます。そしてこれは池川さんが言っていることではなく、インタビューした子どもたちが話していることなので逆に説得力がある気がします(笑)。

最後に 自責の念

noteや英会話に限らず、私たち人間の物事の継続率は異常に低いです。そのような時に自責の念に駆られる人も多いかもしれません。

しかし、そこまで自分を責める必要はないと思われます。

私は人には絶対にタイミングというものがあると信じています。今現在noteを含めてあらゆることで継続できない人は、まさにそのタイミングが悪いだけなのです。

そしてどうしても続けたいことや続ける必要のあることは、自然と継続できるものです。むしろ継続できないと気持ちが悪くなります。例えば、私の毎日のラジオ体操のように(笑)。

<今日の3行日記>

私は過去に継続関連の記事を何度も書いています。しかしその度に新しい考えが出てきます。ですから、似たような記事タイトルでも何度も記事を書くことに挑戦することにはそれなりに意味があると思います。

イラスト素材:パンダのパン屋さん いらっしゃいませ

もう少し小さいイラストがほしかったです。というのも、「いらっしゃいませ」の文字が最後まで入らなかったからです。時間があれば自分でパンダイラストを描いて記事を投稿したいですね。これは老後の楽しみに取っておきます。

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