努力男 -報われなかった彼ら-
15年ほど前だろうか、私は2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)掲示板に入り浸っていた。
当時はニュース速報板(以下、ニュー速)や独身男性板(以下、毒男板)を根城にしていた。
社会についての「高尚でない」意見を交換するには2ちゃんねるは最適で、とても暇つぶしとはいえない時間と熱量を費やしていた。
これらの掲示板は利用者が多く、今のツイッターがそうであるように、ほとんどリアルタイムの会話のように書き込みが増えていくのが特徴だった。
利用者が多いということは、ひとつのカテゴリーにも様々な思想・嗜好・性向をもった人間が集まってくるということだ。
同調できない意見を見かけても、興味がわいたらツッコミを入れてさらに詳しい情報を引き出そうとした。
余談だが、現在ネット上で「論客」と呼ばれている人々はこういうことを繰り返してきたのだろう、と私は思っている。
毒男板で議論することといえば、やはり「俺たちがモテない理由は何か」「どうすればモテるのか」「いやそもそもなぜモテたいのか」あたりが鉄板だった。
いやいや、記憶は美化されるものだから、そんな真面目に議論なんかなされていなかったかもしれない。
芸能人の話題や野球の話題が主流だったかも。
とりあえず「モテたい」「セックスしたい」と騒いでいたのは確かだ。
そんな場で、特に「モテない理由」を語り合う(恋愛工学なんて言葉もなかったから、解決策が提示されない無間地獄だ)人々の中に、彼はいた。
「必死に努力してるのに何も報われない」
人々の目を引いた書き込みは上のような意味の文だ。
私は素直に、そうか努力してるのか、俺は騒ぐばかりで努力はしてないからな、と思った。
それで彼(以下、努力男)に「どんな努力をしてるの?」と聞いた。
答えは「とにかく何でもやってる、努力してる、結果が出ない」だった。
私は、内容が知りたい、お互い参考にできることがあるかも、と食い下がったが、内容が問題ではないのだと返された。
なぜそんなに秘密にしたがるんだと、私は単純な疑問を抱くばかりだったが、続いて、ある人が書き込んだ。
「特に何もやってないから書けないんじゃないか?」
鬼のような正論だ。
私はこの意見に納得して、努力男を叩くことにした。
必死にもがいて本当に何かを積み重ねている他の男をバカにしている、と感じたからだ。
服装に気を使い、美容を気にし、身体を鍛えていた自分自身を侮辱されたと感じたからだ。
まとめサイトをつくり彼の書き込みを羅列し、こういう精神性がモテと遠ざかる理由になるので気をつけよう、とぶち上げた。
努力男はなおも「違う、努力はしてる、見た目が悪くてモテないんだ」と返すばかりで、もはや解決策を求めているのではないとわかった。
(実際のところ毒男板では解決策など得られないのだが)
何をやったか答えられなければ努力してると認めない、というのは、社会ではよくあることだ。就職面接で「大学で何をやっていたか自己アピールしてください」というのはいい例だ。
学生でもそうかもしれない。なんの教科を何時間勉強して、どんなレベルの問題を解けるようにします、と説明できなければ勉強していないものとして扱われるだろう。
ついに努力男の言葉に誰も耳を貸さなくなった。こいつは口だけでなにもやってない、とみんな思った。
だがあれから何年もすぎた今、歳をくった私にはもうひとつの可能性が思い浮かぶ。
努力男は本当に努力はしていたのではないか。筋トレしたり、服のブランドを調べたり、肌の手入れを念入りにしたり、モテるために必要と思われることはそれなりにやったのではないか。
そしてそれらが間違いだったと断じられることが怖くて、詳しく書き出すことができなかったのではないか。
そういえば彼はこうも書いていた。
「モテないのは見た目が悪いからだ」
見た目が悪いにしても程度というものがある、不細工は不細工なりに頑張れば彼女のひとりもできる、私は経験上そう思っていた。
そしてよせばいいのに、どう見た目が悪いのか問いただした。
「目の形が悪いのか? 鼻の形が悪いのか?」「出っ歯やシャクレか」「鼻が20センチぐらいあるのか」「ほっぺたにデカいコブでもあるのか」
回答は先の努力の件と同じだった。
「細かくは言えないけど、とにかく見た目が悪いんだ」
説明ができないのだ。いや、説明をしたくないのだ。
具体的に書いても「そんなの大したことない。俺は○○な体質だけど××して改善を〜〜」と返されてしまうと、無駄に傷ついて終わるだけだからだ。
お前の努力は無駄だった、とか、ここを直さないからダメなんだ、とかいわれるのが、努力男は嫌だったのだ。
優しく手ほどきしてもらえるなら、苦手な努力だって何とかなるものだ。
だが、自分で何とかしろ、成果がなければ努力と認めない、というのが今の世の中の傾向ではないか。
同じ努力をしたとしても、生まれついての個人差で得られる成果に違いがあることは、誰もが認めるところだろう。
なのに、成果を数字や現物で求める段階になると、先天的な能力は無視して「努力したから得られた」「努力が足りないから結果が出ない」と、平気で結果からの類推をはじめてしまう。
人類の悲劇は、こうした声を聞き入れてしまうことだ。
「お前の努力は努力と認めん!証拠は俺だ!文句あんのか!」という"声が大きく傲慢な"人物の私見を、社会は割と寛大に扱う(*)し、勢いに負けて真に受けてしまう人が多い。
世の中は何が正しいか正しくないか曖昧なものだが、大声で他人を威嚇して意思を操る行為は正しくない、と断言してしまっても問題ないだろう。
(*)いわゆるコワモテ、大声の人物に周りが優しくするのは、その人を「怒ると何をするか分からない反社会的人物」として認識しているからであり、必ずしも大声だと意見が通りやすいわけでもない。
努力男に必要だったものはなんだろうか?
本当に他人からの優しさや意見が必要だったと仮定して、それは共感だったのかもしれない。
「そうそう、本とかに書いてあることやってもモテないよな。やっぱり『ただしイケメンに限る』なんだよ!ムカつくよな!」と同調し、女たちの悪口をいっておけばそれで足りたのかもしれない。
なんならそこから詳しく聞き出し、アドバイスもできただろうし、こちらの利益になる情報を得ることにもなったろう。
そんなことを思ったのは、後年、あの事件が起きてからだった。
加藤智大の言葉は、努力男の言葉と似ている気がした。
彼女がいない、携帯依存、病んでる、不細工、とにかく自分や他人をカテゴライズしようとする。
俺は何が好きで何が嫌い、何ができて何ができない、外見上はどこがよくてどこが悪い、という説明ができない。当然他人に対しても「あいつは何々が得意だが、きっとこれはこういう練習をしてきたんだな」という分析ができない。
自分の人生の過ち、具体的な欠点が明らかになるのが怖いからだ。努力が間違っていたといわれるのが怖いからだ。
テストの点も、肌の白さも、なんなら背の高さも努力の結果だと思ってしまいそうな、極端な価値観が人間の中にはある。
その価値観が普段は眠っていても、ある日突然「あいつは暴走車にはねられて片足を失ったが、普段から警戒心を持っていれば轢かれずにすんだはずだ」などといいだしたりする。
今すぐに封印する方法はないが、自覚的になることで、ひとまず「声が大きく傲慢な人」にはならずにすむだろう。