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【ショートショート】 い・ば・り     

   


 俺は夕暮の堤防を歩いていた。日中は酷熱であって、この時刻といえども汗が滲み出る。40分くらい歩いただろうか、ようやく家路の半分ほどまで来た。
 なにも健康の為ではなかった。殆どの者がそうするであろう、路線バスを利用するつもりが、直前になって料金が惜しくなり、それを缶ビールに充てる方を選んだのだ。かといって、健康に頓着しないわけでもない。現に、半日がかりの健診の帰りでもあった。所詮ビール1本分にしかならないが、仕方がない。痛飲するだけの、金銭的なゆとりもなかった。
 残り半分の道のりを思うと気が重かったが、俺は歩を速めた。少しでも早く自室に戻り、腰をおろし、ビールを呷りたいのもそうだが、なにより然程でもなかった尿意が強まってきたのだ。
 河の幅がやや狭くなった辺りで、対岸に聳える高層マンションが姿を見せ始めた。これが見えると家も近い。
 眺めながら、更に近付いた時だった。その建造物が、妙な挑み方をしてきた。以前、ここを通ったのは昼中のことで、その大きさこそ印象的であった。だが今は大きさではなく、いかにも日当たりの良さそうなベランダ側の大きな窓から漏れる灯り、それぞれの家庭の持つとりどりの灯りでもって、俺に迫って来たのだ。
 (どうだい、さぞかし快適なんだろう)
 自室の薄っぺらな壁と床板が頭に浮かび、げんなりした。が、同時にこんな皮肉も覚えた。
 (ひと口に窓灯りといっても、濃いのやら淡いのやら、いろいろだな。そら、見てみろ、あの色。あれにそっくりじゃないか)
 今日の健診で、検査の為に自ら紙コップに取った尿。
 (さあ、教えてくれ。いったい、どの色の家庭が健康で、どの色が不健康なんだい?)
 俺と高層マンションの間の夕闇と同化した河を、煌煌と輝く提灯で装飾された屋形船が通る。家庭の窓、屋形船、双方の灯りが俺に向かってくる。俺はそれを、全身で跳ね返した。
 (我慢? なんだ、それがどうした)
 俺は堤防の分厚い壁に向かった。壁は、汽水による潮のせいか、下を走る車の排気か、苔か、またはそのすべてなのかで、うっすら黒ずんでいた。丁度ひびの入ったところがあり、そこを目がけ、いばりを放った。
 調子が出た俺だったが、己の出したものに不意に足元を攻められ、避けようと後退りした時、ひとつ先のがい灯に照らされた、若い女性と小さなむく犬の姿を認めた。
 犬は壁に対して片足を上げたままの状態で、女性にリードを強く引かれていた。それに反発したのか、今度はすべての足を突っ張らせ、引かれまいと踏ん張り始めた。引く方の手にも力が増す。仕舞には犬は座り込みの抵抗を示したが力負けし、半ば引き摺られながらも、名残惜しそうに俺を振り返った。暗さで表情までわからなかったが、その顔に向かって、
 「ああ、確かに俺の方が自由かも知れない。だが、しかしな……」と言ってやった。


      了
    
 


 

 
 

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