モノクロ
「う、うーん……」
重たそうにまぶたを開けた高橋は、しわがれた手で白髪頭をかきあげ、ゆっくりと周りをみわたした。
「居間……。寝てしまったのか?」
特に妻と話し合って決めた訳でもなく自然とそうなったいつもの自分の場所。新婚当時からの付き合いであるリビングの合皮のソファに高橋は座っていた。ローテーブルのむこう側にある薄型テレビは何も映していない。
「おーい、婆さんやー」
呼びかけても長年の連れ合いからの返事はない。「買い物でも行ってるのか?」よっこらとソファから立ち上がった高橋は、思いがけず身体から2つの報告を受け取った。良い報告と悪い報告である。
良い報告は数年前から頭を悩ませている腰のヘルニア。その調子が今日はすこぶる良い。いつもなら腰を曲げ伸ばしする度に電気が流されたような痛みが走り、患って以来自然と動きがゆっくりになったものだが。
悪い報告は目の具合が良くない。みえにくいとかではなく、どことなく暗い。色を感じないのだ。それは話に聞いたことがある昔のテレビのような。
「やれやれ、なかなか万全な日というのはないものだな」頭をかきながらリビングとキッチンを隔てるのれんを覗いてみたが台所の主はそこにいなかった。
「ん? そういえば……」
高橋は灰色の天井をみつめた。
「今日は何か大切な用事があったような……。たしか会館に……。はて、寄り合いの日だったか?」
ひょっとしたら婆さんもそこにいるのかもと、高橋はカーディガンを羽織り、他の部屋に妻の姿がないことを確認して表へと出た。
当初は寝起きで視界が霞んでいるものかとも思ったが、そうでもないらしい。体にポカポカと陽気が伝わるものの空は一面灰色だ。
「色がないと昼なんだか夜なんだか、天気が良いのか悪いのか、いまいちわからんのぅ」
商店街へと続く道を歩いていると、民家と民家の隙間から1匹の猫が飛びだし目の前を横切った。
「黒猫だと縁起が悪いというが、お前は何色猫なのかね?」
猫に尋ねてみても、こちらをみつめ「にゃー」と鳴くだけ。しばらくみつめ合ってもそれ以外の返事は得られなかった。
郵便局の前では黒にしかみえないポストが鎮座していた。最近ではあまり使用する者はおらず、単なる郵便局の赤い表札と化してしまったポストが今日はなんだか禍々しくみえる。
「ふふ。昔、不幸の手紙だかが流行ったが、それを出すのにピッタリだ」
最も難儀したのは大通り。大通りといってもたいした交通量ではない。町内では一番大きな通りというだけでたまにバスやトラックなどが通るだけである。それでも何もないのは危険だと信号機が設置してあるのだが、その信号の色がわからない。
数十秒ごとにどちらかの色が微妙に変わるのだが、はたして歩行者用の信号は上が青であったか、下が赤であったか、はたまた点滅するのはどちらであったか。
「よわったのぅ」
そう呟き、頭をかいた手をみると指に髪の毛が一本絡みついている。「白はわかりやすいんだがなぁ」と高橋は指で摘んだ毛を息で吹き飛ばした。宙を舞い落ちる白髪を視線でおっていると、すぐ隣で高橋同様信号待ちをしている少年が視界に入ってきた。
その少年はほどなくして左右を確認して片手を上げ横断歩道を渡りはじめた。どうやら青になったらしい。高橋も少年にならい片手を上げその後ろにつき従った。
会館の前の道を歩いていると、窓むこうのホールで町内の知った顔達が慌ただしくパイプ椅子を並べる姿がみえた。
「やはり寄り合いか? いや椅子が一方向をむいて並んでいた。となると講演もしくは講座か? そんな予定入っていたかな」
あごを擦りながら玄関でスリッパに履き替えていると、横の事務室で庶務役がどこかに電話しながらパソコンを叩いていた。
「なんだか皆、忙しそうじゃのう」
ホールに入っても誰も高橋に気づかない。一息つこうと入口近くのパイプ椅子に腰掛けた高橋は思わず息を呑んだ。
正面には花に囲まれた祭壇があり、その手前には人が入りそうな大きな箱が置いてある。壇上には今日みた中で最もモノクロが似合う自分の写真。
しばらく呆然としていたが、ふと最前列にひとり座る妻の背中が目に入った。肩を震わせさめざめと泣いている。やがて高橋は頭をかきながらうなだれている妻へと歩み寄った。
「すまないのぅ婆さん。そんなに泣かないでおくれ」
高橋は眉を曇らせ妻の肩にそっと手を置くも決して届きはしない。窓の外では何色かわからない猫が鳴いていた。