私という器
私の身体は、両親の命を受け継ぎ、先祖の物語が織り込まれたものだと、ずっと思ってきた。私をつくる細胞は遠い昔からの連なりの果てにあるのだと信じていた。しかし、先日、ある「光景」に出会ったことで、私の中にまた新たな「私」が生まれた。
「仕立て屋のサーカス」という名の即興舞台、そこには予定調和のない世界が広がっていた。暗闇の中、ふと私の隣で、名の知れた女優さんが音楽に揺れ、軽やかに身を預けている。ステージは次に何が起こるか分からないが、その不確実さを愉しみ、今この瞬間を喜びながら生きるように、彼女は柔らかに微笑んでいた。その姿が放つ光は、私の心を強く照らし出し、そして静かに問いかけてきた。
「私も、こんなふうに自由になれるだろうか?」と。
その場の空気に身を任せる彼女の姿に心を揺さぶられながら、私は自分がどこか遠慮をしていることに気が付いた。何かをためらい、ひとつの光景として受け取るだけで、心の奥で響くその感覚を自分の内側に循環させることに抵抗している私がいたのだ。ただ、彼女の自由さ、瞬間を生きる姿は美しく、どこか羨ましいとも思った。その夜、私の心には彼女の面影がそっと住みつき、次の日、彼女が私の中で揺れているのを感じた。そして、ふと思った。
私という存在は、ただ両親や先祖の血だけで成り立っているのではなく、今までに出会った人々や経験してきた出来事、見てきた光景たちによっても創られているのだ、と。
私の中には、無数の「誰か」が住んでいる。懐かしい友の笑顔、通りすがりに感じた一瞬の眼差し、厳しくも温かな言葉。いつか出会った人々や情景の「粒」が、この器の中にしずくのように落ち、今の私を成している。その一粒一粒が私の一部となり、心の中でひっそりと呼びかけてくる。「こんなとき、あの人ならどうするだろう?」そう尋ねながら、私は今日も生きている。
思いを巡らせば、街角で一瞬すれ違った人々、画面越しに見ただけの人々、すれ違った全ての存在が私の一部であり、彼らのかけらを持ち合わせているのだと感じる。そして、私もまた誰かの網目の一部として生きている。見えない糸が幾重にも重なり、広がり、私の存在がその中に溶け込んでいるようだ。その糸は繊細に、時に途切れそうになりながらも、見えない光を通してお互いに影響し合い、命のリズムを刻んでいる。
私はあなたでできている。その思いにふれたとき、私という器が、無数の人々と出来事によって満たされ、生かされていることに気付く。そして、そのひとつひとつの「粒」が私に、誰かの網目の一部としての役割を与え、私自身もまた光景を紡いでいるのだと感じる。そこには、ただ感謝がある。何の形も持たない器として、幾重もの光景と出会いながら、私は私を生きているのだ。
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