◎脇役列伝その1:藍思追(3−1)
小説一巻第四章「雅騒」は、藍氏の仙府[せんふ]・「雲深不知処[うんしんふちしょ]」の静かに美しい描写から始まる。
その清澄な雰囲気を全て台無しにするのが、山門の前で泣き叫ぶ莫玄羽(魏無羨)だ。
「はいはい! もうやめてください。雲深不知処で騒ぐことを禁ずる、ですから!」と面倒くさそうに言う藍景儀。「泣かせておけばいい。疲れて泣きやんだら、中に引きずってきなさい」と藍忘機は冷徹だ。
「……俺は男が好きなんだ。藍家は美男子だらけだから、我慢できなくなるかもしれないぞ」と莫玄羽(魏無羨)は脅すように言うが、
「莫公子、含光君がここへ連れて帰ってきたのは、あなたのためなんですよ。もし私たちと一緒に来なかったら、江宗主は絶対に引き下がらなかったと思います。ここ十数年、夷陵老祖だと疑われて、江家の蓮花塢に連行され拷問された人は数えきれないほどで、しかも誰一人解放されていません」
藍思追は優しく説得する。
会話を続けるうちに、山門の中から数名の白衣を着た修士たちが出てきた。先頭に立つのは、姑蘇藍氏宗主・藍曦臣[ラン・シーチェン:曦臣は字。名は藍渙(ラン・ホワン)。号は沢蕪君(たくぶくん)。藍忘機の兄]だ。
出かける藍曦臣を見送った後、「連れてきなさい」という藍忘機の命に従って、思追たちは莫玄羽(魏無羨)を雲深不知処へ引きずり込む。行き先が「静室」と聞いて、門弟たちは驚き、互いに顔を見合わせたまま黙り込んだ。
(あそこは、含光君が誰にも出入りを許したことのない書斎と寝室だぞ……)
しばらくして。思追たちが見回りで冷泉の近くを通りかかると、誰かが前方から走ってきた。
「走り回るな! 雲深不知処で走るのは禁止だぞ!」
腕を掴んで叱る藍景儀。相手は莫玄羽(魏無羨)で、
「俺は見てない! なんにも見てないからね!? 絶対に含光君が沐浴しているところを覗きに来たんじゃないから!」
思追はもはや驚きすぎて、甲高い声で叫んだ。
「今、なんとおっしゃいました? 含光君が? 含光君が中にいらっしゃるんですか!?」
騒いでいる間に、藍忘機が姿を現した。身なりは整えたようだが、抜き身の避塵を持っている。思追たちはすぐさま姿勢を正して彼に一礼した。藍景儀が事の一部始終を報告する。
藍忘機は莫玄羽(魏無羨)を一瞥し、しばし沈黙した後、避塵を鞘に収め、「解散だ」と一言告げる。思追らは口答えせず、すぐさまその場をあとにした。
姑蘇藍氏の門弟たちが藍忘機に、深い尊敬の念と絶対の信頼をおいていることがよくわかる場面である。言ってはいけないから口答えしないのではない。藍忘機への信頼があるから、ここは任せようと身を引くのである。たとえ心の中が疑問だらけであったとしても。
(◎脇役列伝その1:藍思追(3−2)に続く)
章は変わるが同じ雲深不知処(翌朝)の場面なので、続けて紹介する。