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寅さんとルパンと氷河期と

未来を考えるために 第六回

 今回は、もう古くなってしまった映画の
話から始めます。『男はつらいよ』の、
どこが「男はつらいよ」なのか、何十年も
経ってようやくわかったのかもしれない、
という話です。…と言っても、筆者の勝手な
解釈です。そのつもりで読んでください。
また、『男はつらいよ』も含めて、
いくつかの作品について触れます。
ネタバレは「ある」前提で読むように
お願いします。

1.寅さんという存在

 わざわざ指摘するまでもありませんが、
寅さんは、社会不適合者です。そもそも
そういう人が世間の日常空間に入り込む
ことで巻き起こされる悲喜劇なのですから。
 通常、この類の作品は、
「ヤクザ者は迷惑」
「カタギの日常が一番」
みたいなところに落ち着くものです。でも、
タイトルは『男はつらいよ』なのです。
 一体、自業自得にしか見えない寅さんの
何がつらいのでしょう?

2.他の作品から

 この時期、『男はつらいよ』と類似性を
持つ作品が、やはり長大なシリーズになって
います。アニメ版の『ルパン三世』です。
 「どこが似ているの?」と思う方も多いと
思います。ですが、彼ら(ルパンの方は
相棒の次元や五右衛門も含めて)はよく似て
いると筆者は思うに至りました。
 まず、彼らは共に社会不適合者(片や
フーテン、片や泥棒・ガンマン・剣士)
です。そして、その本業は必ずしも上手く
いっているようには描かれません。むしろ
時代遅れな描かれ方をされます。作中でも、
「非現実的なのは、俺たちの方かもな」
(『ルパン VS 複製人間』)などと言ったり
します。
 そして、彼らは美形に描かれているわけ
でもないのにやたらとモテます。ですが、
どれだけモテても、決してヒロインと
くっつきません。どちらの作品も設定が
一定せずパラレルワールドみたいに
なっているのに、ヒロインと結ばれての
ハッピーエンドはありません。

 押井守さんあたりに言わせれば、
「シリーズもののお約束」の一言で
片付けられてしまいそうなことですが、
筆者はここに製作者や消費者の心理が
表れているのではないかと考えます。

3.居場所のない人

 『男はつらいよ』や『ルパン三世』も
含まれる、いわゆる「流れ者(冒険者)」の
話は、ヒロインと結ばれるものと、
結ばれないものの二つに大きく分けることが
できます。この違いは、おそらく、主人公の
居場所のあるなしと関わりがあります。
 流れ者(冒険者)が実は外国人(貴種)で
帰る国があるとか、婿入りして居場所を
もらうとか、そうでなければ二人で旅に出て
自分達の新天地(居場所)を得るとか、
そういう当てがある場合、ヒロインと
結ばれることができます。そうでない場合、
主人公は去ります。主人公は、居場所の
当てがないと、ヒロインと結ばれることが
できないのです。
 この、「ヤクザ者は迷惑」「カタギの
日常が一番」というのは、カタギの人の
心理の反映なのではないでしょうか?
カタギの女性と結ばれるのならカタギに
なりなさい、という。そして寅さんやルパン
には「当てがない、ゆえに結ばれない」で
納得できる話も多くあります。
 しかし、当てが提供されても、彼らは
去ってしまう話もあります。どうして
でしょう?

4.就職氷河期との類似

 寅さんやルパンは、「居場所のない自分」
を引き受けてしまっています。そして
その理由を決して口にせず、空の下を
歩いたり、車を運転しながら口笛を吹いて
いたりタバコを吸っていたりします。
なぜでしょう? それは、おそらく、自分を
カタギの世界から排除しているのが、
まったく善意の「普通の人々」だと気づいて
しまっているからなのではないかと筆者は
考えます。
 『男はつらいよ』には、寅さんが瞬間的に
カタギになろうとするようなエピソードも
あったように思いますが、カタギの世界
では、彼は無能力者と見なされるしかなく、
その無能力も自己責任とされます。また、
彼はしばしばコミュニケーションの齟齬に
よって悲喜劇を生み出します。

・「普通の人々」から無意識に排除された
 存在
・「普通の人々」からは無能力者と
 見なされるしかない存在
・その無能力を自己責任と見なされる存在
・しばしば「普通の人々」と話が通じない
 存在
・(話の通じなさゆえに)しばしば口を
 閉ざす存在

 これらの点において、寅さんとリアルの
就職氷河期の人々とは、とてもよく似ている
ように思われます。
 『男はつらいよ』が上映されていた当時、
この映画は主にカタギの目線からヤクザ者を
見るようにして消費されていたように思われ
ます。ですが現在、当時は意識されなかった
この排除の論理が現実化し、我々は、
リアルにそういう人たちが当たり前に
存在し、しかもそのことを意識させられる
世界に生きることになったのです。

 このように考えていくと、どうして
『男はつらいよ』というタイトルなのかが、
よくわかるように思います。寅さんは、
カタギの世界から排除され、
居場所のない自分を引き受け、
誰かに好かれても結ばれることなく、
そして、その理由を口にすることもなく、
理解されないままさすらい続けるしかない、
そういう人だからです。

 ちなみにルパン達はアウトローですから、
当たり前のようにカタギから排除され、
それを自己責任と見なされます。カタギの
人々とは日常会話程度しかせず、もちろん
その理由を口にすることもありません。
異能の持ち主ではありますが、カタギの
世界に必要とされるものではない点で、
無能力者と見なされかねないような
異能です。
 要するにルパン達は、時代遅れだろうが
何だろうが関係なく、大泥棒で、
ガンマンで、剣士で、あり続けるしかない
存在なのです。

5.もう一つの寅さんたちの物語

 寅さんはヤクザ者扱いされてますが、
ヤクザになってはいません。彼には妹という
アンカーが働いているからと思われます。
アンカーのないルパンや次元や五右衛門は、
その一線を踏み越えてアウトローの存在に
なっています。
 この、アウトローの世界にはじき出された
多くの人たちを描いたのが、やはり
『男はつらいよ』と同時期にシリーズに
なった、『仁義なき戦い』です。この種の
映画にありがちな、主人公が大暴れする
ようなものではなく、多くの人(ヤクザ)が
消耗品のように死んでいく様を表現して
います。
 これは、寅さんに妹がいなかった場合の
姿と言えるのかもしれません。

6.繰り返し生み出される存在

 これまでの話と関連させて言えば、
彼らは群れ(カタギの社会)から分散用の
人員とされたけれど行く所はなく、群れの
境界にいる存在です。その意味で、
『仁義なき戦い』で描かれているのは、
群れ(日本社会)の外へ侵攻せずに内部で
行われる戦争(つまり内戦)と言えます。

 子孫を残せない彼(彼女)らは、繁殖に
重きを置く社会では常に敗者であり、その
存在自体が次代へ伝わりません。ですが、
適応環境下では損耗分を上回る繁殖率を
示すのが生物というものなら、彼らのような
存在は、繰り返し生み出されることになり、
そして繰り返し消費されるでしょう。

 もしも人にはみな人権が認められるとか、
持続可能な社会を、とか言うのであれば、
彼(彼女)らのような存在が生み出される
ことを前提としたものでなければならない
のではないかと思われます。つまり、
ある程度の割合で「おひとりさま」がいる
ことが当たり前で、繁殖敗者として肩身が
狭い思いをするのではなく、生き方の
選択肢の一つとして認知されている社会、
生きがいの人生が見つけられるような
社会、ということです。

 そうではなく、やはり生物なのだから
繁殖が価値観の中心でしかありえないの
ならば、敗者の中から「無敵の人」が
繰り返し生み出されるのではないかな、
というのが筆者の考えです。
 今は対話を、包摂を、と言われたり
しますが、そういった概念以前に、
そもそも言語や文化といったもの自体が、
内に異質性を含んでいる前提なのでは
ないでしょうか?
 だって、繁殖勝者の行動特性なんて、
遺伝子と刷り込みと習慣の伝達だけで
充分なことは、他の生物が立証して
いますから。
 別の言い方をするなら、「みんな同じ」
は楽でしょうけど、みんな同じ社会は
対話も自己表現もない、エサや危険の
情報交換ばかりの、アリとかハチみたいな
社会のような気がしますよ、という
ところで、今回の話はおしまいです。

主な参考文献

押井守, 野田真外著 『押井守監督が語る
映画で学ぶ現代史』 (日経BP 2020)

映像作品

映画『男はつらいよ』シリーズ (松竹)

映画『仁義なき戦い』シリーズ (東映)

アニメ『ルパン三世』
 TVシリーズ partⅠ, partⅤ
 劇場版『ルパン VS 複製人間』
 (トムス・エンターテイメント)

 次回は、少し物語風の話をする予定で
います。
「勝ち組が負け組になっていた話」
です。

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