見出し画像

「どうしてころしちゃいけないの?」

ヒトの意識と神と世界のはなし 第二回

 今回は、
「どうしてころしちゃいけないの?」
の答えを目指します。

3.非意識と意識の関係と意識の役割

 そのために、もう少し非意識(神)と
意識(私)との関係について、より詳しく
考えていきます。

 前回述べましたように、意識は、
外部との関わりにおいて非意識によって
つくられたものです。
 外部世界との関わりが意識の主任務
ということです。
 だから現代人は生体維持に直接関係の
ない通信機器に夢中になっちゃうのだと
考えられます。

 今回は、さらに2点、要素を追加します。

・脳内に決まった意識の座というものは
ないらしい。

・例えば「歩いている時」と「歩きながら
話をしている時」では、意識のある
ところが違う。

ということは、意識は、体内への干渉に
制限はあるものの、外部との活動用なら
様々なところに干渉できるように
できているようです。

 一例として「目の前の水を飲むか
飲まないか」という判断について考えて
みるとわかります。
 喉が渇いていてもいなくても、隣に
飲みたそうにしている人がいても
いなくても、飲んだらお腹壊しそうでも、
どの場合でもその水を飲むことも飲まない
ことも選択することはできてしまいます。

 つまり外部の活動に関して、意識は
非意識に制限されず自由に判断して
選択できます。逆に言うなら非意識は
意識の判断に関して中立と言えます。
毒入りの水でも、飲むという判断"だけ"で
生体維持機能に異常はでません。
飲んだ毒の作用で異常をきたすのです。

 この意識(私)の非意識(神)に対する
独立性が、自由の概念の根源ではないかと
思われます。だから意識は自由が大好き
なんじゃないかと思います。実はそれは
その人の非意識と意識の間のことで
外部には関係ないのですけどね。

 どうしてそんなふうにできているのかと
言えば、上記の水の例でも、どの判断も
妥当な判断であることがありえるからだと
思われます。相当なレアケースを含み
ますが。

 余談ですが、この自由が非意識(神)から
独立した意識(私)があるように感じて
しまったり、霊や魂といった意識だけの
存在があるように思えてしまったりする
理由なのではないかと思われます。

 さて、当然ですが、自分をどのように
振る舞わせるのも自由だからと言って、
自分の外部もそれに合わせてくれるわけ
ではありません。
 高い所から飛び降りる判断は自由に
下すことができますが、それをしたら
大怪我したり死んでしまったりします。
 社会的に禁止されていることでも
それをする判断は自由に下せますが、
それをすればその社会から罰せられたり
追い出されたりします。当たり前です。

 ということで、ここに責任というものが
生まれます。責任の概念の根源は、
意識(私)が非意識(神)に対して負っている
ものと言えそうです。
 しかも、全てが妥当になることが
ありえるから全てから自由に判断できる
という中での判断についての責任です。
大変過ぎです。
 だから認知バイアスで予めレアケースを
取り除こうとするんです。たぶん。

……予告どおりにグダグダ感がでてきて
いますのでここらで一度まとめます。

 要するに、意識は非意識から外部の
ことの判断を委ねられた存在で、
非意識はそのことに関しては中立であり、
意識の自由と責任において判断できる、
というお話でした。

 このように考えていくと、
「神の愛」とは、神(非意識)は
外部のことに対して中立ということ、
聖人君子のように振る舞おうと、
犯罪者のように振る舞おうと、
そのことだけでいきなり心臓が
止まることはなく、いかなる時でも
生き続けようとしますよ、という意味と
考えられます。
「楽園からの追放」とは、意識が
非意識から独立してあるように感じて
しまうところから生み出されたものか、
意識が生体維持など身体内部のことから
切り離されて外部のことの担当になって
いることを物語っているのかもしれない
ですね。
 住んでたアフリカやアラビアが
住めなくなったとか、追い出されたとか、
そういうリアルな伝承かもしれませんが。

 ウィトゲンシュタインの「幸福に
生きよ」やフランクルの「あなたは
問われている存在」なども外部での判断を
委ねられた意識と、非意識との関係を
言っているように思えます。

 今回の本題、自殺戒や殺生戒は、
ともに「(自殺は自分の、殺生は他者の)
神殺し」あるいは「神の意志(生体維持)」
の否定にあたるから禁止されている、
ということだと思われます。
 違う言い方をするなら、外部の問題を
内部に持ち込まないようにとか、せっかく
内部的に制限しているのに外部から干渉
するのはナシでしょうとか。

 蛇足ですが、「聖戦(ジハード)」は
これに対する例外条項なんじゃないかと
思われます。神(=生体維持機能)を
守るための戦いは仕方ないよね、という。

 もうひとつ、次回に予定されている
「どうしてべんきょうするの?」に
ついても、一部答えが示されているように
思われます。
 責任のところで書きましたが、全てから
自由に判断できて全てが妥当になりえるの
ですから、その時々に妥当な判断をする
ためにはたくさんの情報が必要となる
でしょう。そのためです。

 というわけで、今回のお題と答え。
「どうしてころしちゃいけないの?」
に対する現時点での私の回答は、

「いのちはいきるためのものだから」

ということになりますかね。
こどもことばで言うのはかなり苦しいです。
そりゃ

「かみさまのいしだからです」

の方がわかりやすいでしょうよ。
宗教さすがです。年季が違います。

 もちろん、この回答が唯一絶対のものだ
なんていうつもりはまったくありません。
 きっと、私とあなたが同じ情報を得ても、
そこから下される判断は別々のものに
なるでしょうから。

主な参考文献
 今回でもウィトゲンシュタインは
ちゃんと読んだことがないです。前回
挙げた以外に参考したものを挙げます。

『「自閉症」の時代』
竹中均著 講談社 2020

フランクルはがっつり読んでます。

『それでも人生にイエスと言う』
ヴィクトール・E・フランクル著
春秋社 1993

『<生きる意味>を求めて』
ヴィクトール・E・フランクル著
春秋社 1999

『夜と霧』
ヴィクトール・E・フランクル著
みすず書房 2002

『意味への意志』
ヴィクトール・E・フランクル著
春秋社 2002

 まんがやアニメやゲームはネタバレになる
おそれがあるから、挙げないように
していたのですが、2つだけ挙げます。

『ヴィンランド・サガ』
(幸村誠 講談社)

『素晴らしき世界~不確定存在』
(ケロQ)

 それと洋楽ですが、
『The Great Pretender』
の歌詞は、ここで書いた意識のありよう
そのものです。

 次回は「どうしてべんきょうするの?」
についてです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?