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劉備仁君伝説を考える

 今回は三国志ネタです。正史に書かれた
劉備から、演義のキャラへ通じる要素が
あったのかについて、考えます。

1.正史と演義のキャラの違い

 正史の劉備は、はっきり言ってよく
わからない人です。行動や事績が記されて
いても、そこから性格や思考や志向が
あまり浮かび上がってこないと言いますか。
せいぜい侠気を感じさせるところがある、
といったところです。
 それが演義では、泣いてばかり、人に
頼っってばかりの、ヘナヘナ系仁君キャラへ
変貌しています。ほぼ別人です。

 演義の劉備のキャラについては、すでに、
『三国志演義』で井波律子さんが、
「各々強烈な個性をもつ多数の登場人物を
つなぐ、「虚なる中心」の役割」
「『西遊記』の三蔵法師、『水滸伝』の
宋江などとも共通するもの」とし、
『三国志演義の世界』で金文京さんが
「劉備にいろいろやられては、ほかの人が
こまるから」としています。

 これはこれで、まったくもってその通り
です。しかし、果たしてそういった物語上の
要請に従っただけなのか、実際の劉備には
後世、仁君と伝えられるような要素は
なかったのか、ここではこの点について、
考えてみようと思います。

2.正史の人物像を掘り下げる

 冒頭で書いたように、正史の劉備は、
明確な人物像が描きにくい人です。
「先主伝」を読んでも、下記くらいの
ことしかわかりません。

・役人には向いてなさそうだし、
 本人もそういう志向を持ってなさそう。

・劉邦の後追いみたいなところがある。

・特筆するような異能を示したことは
 ないのに、やたらと人に好かれる。

・逆に、やたらと英雄視されて警戒される。

・よく負けるけど死なない。
 生存能力が高いということか?
 戦術的な勘はあるということかも。

 人に好かれる、というところは仁君っぽい
かもしれませんね。劉備は公孫瓚、陶謙、
曹操、袁紹、劉表と所属する陣営を渡り
歩いていますが、これだけ渡っていける、
ということ自体が結構すごいことです。
まあ、その能力(?)が災いして、器量の
大きくない公孫瓚、袁紹、劉表には
厚遇されず、曹操には厚遇されてもその
謀臣には警戒され、曹操を暗殺しようとする
菫承みたいなのにも好かれてしまうなど、
良いことばかりではないのですが。

 ちなみに劉備は、一度自身が敵対した
陣営へ戻るような真似はしていません。
独立後も、一度孫権と敵対してからは関係
修復をせずに攻め込んでいます。
 あちこち渡り歩いたという事実からは
節操がなかったり、流されてばかりの印象を
受けますが、実は筋が通った骨太な武人
みたいなところがある人です。口のうまい
馬謖をあまり評価しなかったりもしてます。

 こういった情報を掻き集めてみると、
何となくですが、
「やりたいことをやらせてくれる人」
というような人物像が想像されます。
この見方で、劉備の集団を見渡すと、
劉備自身を筆頭に、組織立った活動に向いて
なさそうな人も多くいることに気づきます。
要するに、曹操のところでは居心地が悪く
なりそうな人たちです。

関羽 :理想に殉じたい
張飛 :酒飲んだり暴れたりしたい
簡雍 :だべりたい

関羽は違うだろ、と思う方もいるかも
しれませんが、関羽はプライドが高くて
非常に扱いづらい、大組織に向かない
タイプに見えます。曹操個人は扱えても、
他の人達は間違いなく持て余すでしょう。
蜀でも組織の一部として制御することが
できず、敗死してしまいます。

 もちろん、いかな劉備集団でも、
そんな人しかいないわけではないです。
糜竺などは、そういう変な人も多く集まり、
自身も変人の劉備を稀有に思い、援助したの
ではないでしょうか。

糜竺 :そんな劉備を助けたい

です。こういうのがなかったら、どこか
途中でこの集団は消滅したことでしょう。
 こんな集団なので、陳群など、曹操の方と
相性が良さそうな人は、去ってしまい
やすかったのではないでしょうか。

3.諸葛亮とのやりとり

 こんな組織と呼べないような場当たり的
集団に、異分子が加わります。

諸葛亮:曹操の手の届かない国をつくりたい

あるいは、

諸葛亮:一から建国をやってたい

です。やりたいことをやらせる劉備と、
やりたいようにやらせてくれる人を求めて
いた諸葛亮との、奇跡的マッチングの
成立です。すでに組織が成立している
曹操陣営では、こうはいきません。
 劉備は、でかいこと言うヤツだな、とか
思ったかもしれません。が、やらせてみたら
ほんとに国を建ててしまった、というのが
蜀なのではないかな、という感じがします。

 さて、こうして劉備集団は流浪の集団では
なくなりましたが、国になった以上、秩序の
建設が始まります。そうなると、元から
劉備集団にいた人たちの中には、居心地が
悪くなる人も出たことでしょう。
 特に関羽は、当初の理想から離れて
しまった、となったのかもしれません。
関羽と諸葛亮とは、うまくいっていなかった
ように感じられます。正史には、荊州の
関羽に鉞と節(専断権)を与えたとあります。
これも遠隔地だからというのもあるでしょう
けど、持て余し気味で敬して遠ざけたような
ところもあったのではないでしょうか。
結果として、関羽は独断専行して戦線を
拡大し、敗死してしまいます。

 そして、関羽が死んだことにより、蜀の
組織内最大の不適合者・劉備が覚醒して
しまいます。劉備にとっても、諸葛亮の
建てた国は、安全でも居心地はあまり
よくなかったのかも知れません。仇討ちの
戦争を起こしてしまいます。
 もしかしたら、居心地の悪くなった者達を
引き連れて出て行き、もう戻ってくる気は
なかったのかもしれません。負けた劉備は
首都へ戻ることなく亡くなってます。

 そう考えると、正史(「諸葛亮伝」)にも
ある名場面の一つ、諸葛亮へ後事を託す
ところは、実は以下のようなやりとり
だったのではないでしょうか?

「お前が建てた国だ。お前の好きにしな」
(若嗣子可輔、輔之、如其不才、君可自取)

「私が建てたのは、"あなたが王の"国です。
私が王になることはできません」
(臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死)

 こう解釈した方が、道家的な劉備と、
法家的な諸葛亮の違いが浮き彫りに
なります。それが実態に近かったように
思われます。もちろん個人的解釈ですが、
この主従、実は噛み合っているようでいて、
噛み合ってなかったような気がするのです。
 水魚の交わりというのも、同質性が高い
関羽や張飛が相手なら、直感的に通じて、
時間をかけてわかる必要はないけど、
諸葛亮とはまるで違うからこそ、時間を
かけて交わらないといけなかったのでは
ないかと。実際、後に諸葛亮は劉備の
警告を無視して馬謖を重用するし、
それで大失敗します。一方が死んだ後まで
噛み合うことのなかった主従、という
図式が浮かんできてしまいます。

 劉備は子どもたちに諸葛亮に従うよう
指示しますが、それも蜀は諸葛亮の国という
意識があったからではないでしょうか。

4.結論

 余計なところまで話が飛んでいって
しまいましたので、ここで一度締めます。

 後世、劉備が仁君キャラになったのは、
本人に人に好かれるところがあり、かつ、
やりたいことをさせてくれるようなところが
あったのではないか、あるいは、組織や
秩序からはみ出てしまうような人も
受け入れたりしたからではないか、という
お話でした。

 実際には侠客的、あるいは道家的に生きた
ような劉備ですし、演義も講談みたいな
娯楽がベースですから、仁君と言っても、
儒家的な「仁」ではなくて、侠客的な
「仁義」の方の意味なのでしょう。
その割にはよく泣きますが。

付.劉禅は不肖の子だったのか?

 ここからは完全な蛇足です。上記の劉備
解釈に基づけば、不肖の息子の典型のように
言われる劉禅の像も少しは変わるのかな、
という話です。

 実は劉禅も父親と同じく、
「やりたい奴にやりたいことをやらせてた」
のではないでしょうか?
 でも、父親と違って山あり谷ありの人生を
送ってなく、人を観る目を鍛えられも
しなかった彼のところには、お約束のように
「王を喜ばせて自身も良い思いをしたい」
だけの、黄皓のようなのが近づくことに
なってしまった、とは言えないでしょうか?

 劉禅は鐘会の乱の際に、下手に巻き込まれ
ないで生き残り、父親譲りの生存能力を
発揮しています。
 また、『漢晋春秋』の司馬昭とのやり取り
でも、司馬昭と郤正双方に望まれるままに
振舞い、自分を一切出さないあたり、
かなり道家的です。

 こうやって見ていくと、この人って案外
父親に肖ていたんじゃない? という気が
してきてしまいます。

主な参考文献

『三国志』Ⅳ 守屋洋, 竹内良雄訳 徳間書店
1979

『正史三国志』5巻 陳寿著 裴松之注
井波律子訳 筑摩書房 1993

『三国志演義』 井波律子著 岩波書店 1994

『三国志演義の世界 [増補版]』 金文京著
東方書店 2010

『三国志』全12巻 宮城谷昌光著 文藝春秋
2008-2015

 さて、終活の一環の書き物なので、
もうそろそろおしまいです。これまでの
諸々を関連づけて、未来を考えるために
残してあった方がいいんじゃない、という
ものごとを、
「未来を考えるために」
というタイトルで書き残そうと思います。
当初一回で終わらせられると思っていたの
ですが、長くなりそうなので2回か3回に
分けて書くと思います。

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