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中国史ー秦の終わり【始皇帝っていまいち?】

こんにちは。中国史を勉強し始めて一ヶ月ぐらい経ちましたが、やっと春秋戦国時代が終わりました。本日は秦国滅亡について学んだことを書いていきたいと思います。

秦が滅亡したのはなぜか

政がやっと中華を統一して始皇帝になりました。が二代目で秦は滅亡してしまいます。早いですね‥。なぜなんでしょうか?

始皇帝のせいで民は苦しかった?

私が学んだのはこちらのサイトです⇓

とても分かりやすかったです。ありがとうございました。

簡単に言うと‥
長い戦乱で疲れ果てた民達は、始皇帝が全国を統一したことで、やっと平和で安定した生活が送れる‥。と思っていましたが、
実際は万里の長城建設や、たびかさなる遠征、厳しい法律で人々を苦しめました。

  • 外敵に備えて万里の長城建設

  • 新しい宮殿、阿房宮の建設

  • 自分の墓、驪山陵(りざんりょう)の建設

  • 墓に置く兵馬俑坑(へいばようこう)の制作※人形

  • 天下巡幸※天下一を皆にしめすため全国を巡った(道を整備したり路肩に松を植えたりと金がかかる)

他にもあると思うんですが、このように始皇帝はめちゃくちゃ工事させたんですね。労働労働‥(;´д`)
この工事には、秦の法をおかした罪人達を沢山使ったそうです。秦の法はとても厳しく、泥棒や人殺しはもちろん、ちょっとした喧嘩や釣銭のごまかしなんかも罪とし、多くの人々を捕らえました。

厳しい法で休みなく働かせ罰っしたことで、人々は不満をいだきました。また、身分関係なく法を守らせ、貴族がのさばることを許さなかったことから、貴族からも恨みを買っていました。成果を上げた者には報奨を与え、地位を認めることはとても良いことかと思いますが、弱肉強食すぎると、私のようなノーマルタイプの人間は、肉体的にも精神的にも苦しいかなと思いました。

また、焚書坑儒といった思想や言論を制限するようなことをしては、間違いなく恨まれますよね。

秦を滅ぼす二代目皇帝

始皇帝は5回目の巡幸中、馬車の中で亡くなったそうな‥。(多分)
このとき始皇帝は死に際、自分の跡継ぎは長男の扶蘇(ふそ)にしろ!と家来に伝えていたのに、家来はそれを聞かず、始皇帝の印を押した正式な文書も書き換え、二代目皇帝は末子の胡亥(こがい)ということにしてしまいました。これは宦官、趙高の策略でした。趙高はなんでこんなことしたの?と思いましたが、結局自分の言う通りに動いてくれそうな人間を皇帝にしたかったんでしょう。

胡亥(こがい)‥始皇帝と同じく、宮殿、始皇帝陵、万里の長城の工事、また大規模な徴兵を強いたことで人々を苦しめた二代目皇帝。

反乱の芽

秦を滅ぼしたのは、上↑で書いたように人々を苦しめたからだということですが‥それで自然に国が滅んだわけではないですよね。国が滅びるときには主要な人物と何か事件があるはずなんですよ。私はこの一ヶ月学びましたよ!

始皇帝を恨んでいた項羽


項羽はもともと楚の人間だった。秦軍によって大将軍の祖父を殺され楚国を滅ばされたことで秦に恨みを持っていた。叔父の項梁(こうりょう)に養育され呉で生活していた。
始皇帝が死に、陳勝らが反乱を起こしたということから、各地で反乱に加わろうとする軍人や役人も多かった。叔父の項梁は呉で有能な人材を確保し、兵を強くしていった。項羽は項梁に従った。
その後、(旧)楚王の孫の懐王を立てて楚の国を興し、劉邦と共に秦に刃向かう勢力を結集する。

死罪になるぐらいなら反乱を起こそう!劉邦


農民出身の劉邦は受刑者を護送する任務を任されていました。そんなある日、雨で川が増水して予定通りに到着できない事態になりました。秦の法では、どんな理由でも予定の期日までに到着できなければ死刑‥。どうせ死刑になるのなら‥と劉邦は受刑者を解放し、共に反乱軍を組織しました。
その後項羽の軍と合流。

陳勝・呉広の乱


劉邦の時と似たような事態に陥り、反乱を計画する。

「俺たちは大雨に降られ、最早期日には間に合わない。期日への遅れは問答無用で斬首だ。仮に殺されないとしても、労役で死ぬのは10人中6・7人であり、労役で死なずとも帰途で死ぬかもしれない。どうせ死ぬのならば、名を残して死ぬべきだ。もとより、人間に王侯将相の種族の別があろうか」。

ウィキペディア「陳勝・呉広の乱」より

と兵卒(下級の軍人)の前で演説し、人を集めた。

この時に民衆の支持を集めるために陳勝は扶蘇、呉広は項燕を名乗った。始皇帝の長子にして悲劇の皇太子である扶蘇と旧楚の英雄である項燕は庶民に人気があり、多くはその死を知らずまた信じていなかった。二人はそれを利用した。

ウィキペディア「陳勝・呉広の乱」より

陳勝らはこのようにして人を集め、秦側の人間を殺して勢力を拡大していった。陳勝は陳の地を占拠しそこの王となり、陳を反乱軍の本拠地とした。(国名は張楚) 部下の将軍に楚軍を動かして秦を討たせようとする。(呉広は項燕という楚の大将軍を名乗っていたからか?なんで楚軍?)
他にもあらゆる将軍を各地に派遣して秦の土地を攻略していく。
楚軍が秦の都まで攻め入ったが、その時の秦の将軍(章邯)の機転により秦軍が勝利する。(このとき楚軍は結構少なかった?) これを機に楚軍の勢いは弱まる。

一方、陳勝の部下の一人、武臣は陳勝の命令で趙に向かった。最初は各地を巡り有力な人物にこの反乱に加わるよう説得していたが、どんどん味方を付けていくと、陳勝に従うよりも趙の王となり、この土地を治めていく方がいいだろうと思い、陳勝から離れることを決意。独立を宣言した。
似たように、燕や魏などでも王が生まれる。
呉広の軍は秦軍からの攻撃に苦しみ、とうとう呉広の部下が呉広を裏切る。それを秦の将軍、章邯が討ち、さらに斉王、魏王を死へ追いやった。
その後章邯は陳勝がいる本拠地の陳に攻め入り、陳勝を追い詰めた。陳勝は項梁の軍と合流する予定だった。

その後、秦への反乱は楚の項梁が引き継いでいく。

‥ということで、少しまとめますと
項梁、項羽、劉邦、陳勝、呉広らは同じ時に秦に対して反乱を起こした者達なんですね。んで、「おお!あっちでも反乱軍もりあがってんな~(⌒∇⌒)」ってな感じにお互いを応援し合っていたムードでした。それぞれが勢力を拡大して秦を討つためにぞろぞろ旅をしていましたが、最初に落ちたのは陳勝・呉広グループなわけです。項羽、劉邦からしたら「せっかくそっちと合流しようと思ってたのに~(´Д`)」ってな感じですかね(笑)
で、こっから劉邦は項羽の軍と合流します。でも少しでも邪魔だとすぐ殺そうとしてくる人間ばかりなので、そんな仲良く一緒に対秦♡とはならないんですね。まあ秦を討ってしまえば中華一の皇帝になれちゃうわけですし‥。

項羽と劉邦の戦いは次回にまとめていきたいと思います。
今回は秦の終わりの前半を勉強しました。ありがとうございました。






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