Another/掌編小説#1
一.
202X年、政権与党は国民の声を後押しに受け、とある法律を施行する。「個人の通名による社会活動及びそれに関連する法律」。
この法によって、医療やら確定申告やらの行政サービスを本人が申請した通名で受けることができるようになった。
少し仰々しく説明したが、この制度は言ってみれば、「自分発案の公式のあだ名がつけられる」という制度だ。この政策を後押ししたのは、親の良識を疑ってしまうような奇抜な名前、いわゆるキラキラネームを与えられた人間たちである。その人間たちはその通名を古代中国の風習になぞって、字(アザナ)と呼び、大層にありがたがった。
ニ.
この制度はキラキラネームではない人たちにも広く受け入れられ、今では3人に2人が字を持っている。今病院の待合室を覗けば、およそ普通とは思えない名前を聞くことも珍しくない。
若者の間では、本名を明かすことは隠し事なく相手を信頼している事という価値観があるようだ。「好意のある異性に告白すると同時に本名を打ち明ける。」この時代ではひとつの求愛方法として見られている。
三.
「あのさ、字なんて言うけど、『自分のことはこう呼んで下さい!それ以外は認めません!キー!』ってことだよね?これが正しいとはお姉さん思わないよ。」
金曜20時。定時なんかとっくに過ぎたオフィスに垣原先輩はぼやく。他に俺しかいないのに、乱雑に投げられたボールでキャッチボールは始まった。
「この字っていうのはどうにかなりませんかね。これのせいで、行政の書類が一枚も二枚も増える。事務は居残りですよ。」
「全くその通りです、昴くん。君は物事をわきまえてる天才です。さ、あと3人分の最終調整かけるよ。」
「先輩あと、辞めた大虎さんの処理もありますよ。」
「ダァー!なんだよ。辞めんなよ。タイガーってなんだよ、純日本人のあの子にそんな虎要素感じないよ!」
四.
データの打ち込み、仕上げた書類の確認、提出された申請のダブルチェック。終わらせなきゃいけない仕事を片付けた頃、気付けば、時計の針は22時を知らせていた。
大変に疲れはしたが、この時は嫌ではない。この時間まで残業すると、先輩は俺を最寄りの飲み屋通りに連れ出して奢ってくれる。これほど嬉しいことはない。
事務所を施錠するといつもの道を2人で歩いていく。おもむろに先輩は口を開く。
「ねぇ、昴くんは字あるの?」
「ありますよ。…今は本名を名乗ってます。」
「ふーん、そうなんだ。あ、そういえば、申請してたっけ?ちょっと覚えてないけど。」
俺は会社に申請している字があるが、先輩には本名を伝えている。その真意を伝える勇気は、今の俺にはない。