廻る巡る/掌編小説
一.
「はぁ〜。これで今週8人目。」
千葉県警館山署の警察官はため息を漏らす。目の前の海には夏らしいワンピースが浮いている。
ヒラヒラとした薄い青色のレースは見ているだけで涼しさを感じる。おそらく持ち主はファッションセンスが良いのだろう。今となっては確認する術はないが。
惨たらしい光景も見慣れてしまった。人間の適応力とは怖いものである。自身の育った生まれ故郷が悪い意味で名所となってしまったことを本当に残念に思っていた。
二.
インターネットの発展は確かに人類の生活を便利にした。しかし、強大で身近で必須で代え難い文明の利器は私たちに牙を向くことになる。
人生に絶望した人間たちの負の感情がインターネットにより拡散されていった。ばら撒かれた絶望のタネは世界中で花開いた。
老若男女、国籍、宗教、貧富を問わず、現在は人類の多くの人間が自死に走る風潮が蔓延している。
「S.F.ウイルス」
SNSやらブログやら、インターネットを利用した有機的な負の感情の伝染を病原菌に例えて、マスコミや政府はこう呼んだ。S.F.とは何の略かはわからない。まさか「サイエンスフィクション」ではなかろう。
三.
「海に帰ろう。」そんな哀しいスローガンを真に受けて都市圏のS.F.ウイルス感染者は、皆、一様にこの八条海岸を目指してくるようになった。
人員を増員し、パトロールを実行する。思い止まらせた件数もそれなりにあるが、やはり限界というものがある。運の悪く、何もしてやれなかった人間の方が多い。
何がそこまで、彼女ら、彼らを駆り立てるのだろうか。何を思い、何を考えていたのだろうか。水面に映える悲愴とも、安堵とも捉えられる顔が頭から離れなかった。
四.
「大丈夫ですか?顔色が良くないですよ。」
同課の若い男の子に心配されてしまった。体調は悪くないし疲れてもないが、そんな風に言われると何かドキッとしてしまう。
「ああ。大丈夫大丈夫」
変な心音を抑えながら生返事のようなことを答えてしまった。ならいいんですが…とその子はスタスタと自分のデスクに戻った。
あれやこれやと考えてしまうから、あえて考えることをせず働いた。そんなこんなで、あっという間に定時となった。
こんなにも思い悩むことがある時にはよる場所がある。行きつけの小料理屋「はちじょう」だ。医師に控えるよう言われた飲酒もこの時ばかりは解禁だ。
「あら、ご無沙汰ですね。こちら座って下さい。」
女将に案内されるまま、着席。とても気の利く女性で私が来る時は何かがある時だとわかってくれている。何も言わずとも、ビールを出してくれた。
店内は私と3人組の男達しかいなかった。男達は座敷席に、私はカウンター席に。カウンターの向こうでは女将が手際よく料理をしている。
五.
水無月の候。ジメジメとした身体には、ビールがこれでもかと染み込む。清涼な、爽快な。こんな形容詞が似合う。
女将は料理を出してくれた。見事な刺身の盛り合わせ。アジか何かの光り物の横にはブリの刺身、彩りを添えるようなタコにエビ。皿の端のワカメと大葉がこんなに力なく見えたのは初めてだ。
「こ、こんなの食べられないですよ。さすがに……高いでしょ。」
「ふふ。これ、お通しなんですよ。お通し代しかいただきません。」
聞けばこの頃、各所で豊漁であるらしい。だから、相場より安く、しかも良い魚が手に入るのだと。
「それにしても、どうして、豊漁なんだろうかね。」
「うーん、詳しいことはわからないですけど…」
「こういう時は大体、海に栄養が多い時ですよね。」
何か嫌な想像をしてしまった。私はこの考えを日本酒の冷やといっしょに流し込んだ。
だけど、いや、でも、…….だが。
もしこの妄想が正しいとして。彼らは果たしてどう思うだろう。
実態のない恐怖に心を振り回され、世の中に絶望し、その身を亡くした。さらにその上に、海に還した命も誰とも分からぬ人間に貪られる。
彼ら、彼女らは、どう思うのだろうか。
入口近くの窓。風がカーテンをひらひらと揺らす。ごっくんと大ぶりな刺身を飲み込んだ。
今日はどうも考えすぎる。潮の匂いと土の匂いが混じった風は、私が酒に酔うことを許さない。