歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」⑫ 「劉家峡と炳霊寺石窟」

画像1 歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」⑫ 「劉家峡と炳霊寺石窟の荘厳に思う」記録者:片山裕幸隊員 10月20日(土曜日)、日程6日目は宿泊先の甘粛省の省都、蘭州市のホテルから甘粛省永靖県にある劉家峡から炳霊寺石窟への旅です。   炳霊寺石窟は、2014年年6月22日にシルクロードの世界文化遺産として登録されました。シルクロードの世界遺産登録は、中国とカザフスタン、キルギスの三カ国が申請した「長安ー天山回廊」のみが登録となりました。この世界遺産の登録ですが、それは平山郁夫氏の功績です。
画像2 朝八時に全員集合して、ホテル横からマイクロバスで片道130キロメートルの劉家峡の真ん中位に位置しているところにある船着場(向阳村)まで約3時間のバスの旅です。蘭州市内を抜けるのに約1時間程。本日は土曜日のため思っていたよりも混雑はなくスムーズに移動しているように思われる。出発から1時間45分経過後トイレ休憩。
画像3 劉家峡ダムは、堰堤高さ147メートル、標高840メートル、貯水量57億トン、面積130平方キロメートル、発電能力123万キロワット。(最大出力世界一の三峡ダム:1820万キロワット、他に地下発電所が在り、合計では2250万キロワット。最大出力日本一は関西電力奥多々良木発電所:193万キロワット)  劉家峡はいつもは青く見えるのですが、今日は黄河のシルトが大雨のため大量に流れてきて、周辺は茶色く濁っていました。
画像4 予定時間より15分位前に船着場の何阳村に到着。到着したときも多少の小雨の状態でした。雨具を持参。船着場から炳霊寺石窟の船着場までの船旅です。この船着場には、2千年4月に甘粛省永靖県が建設したとの記念碑がありました。地域経済のために永靖県がこの船着場を建設したようです。高速艇は30人乗りの中型船と9人乗りの小型船がありましたが、乗船したのは中型船でした。小型高速船は速度は速いのですが、波の影響もしているように見えました。中型船に乗船できて良かったのかもしれません。ホットしました。
画像5 乗船場周辺は黄土のシルトで岸の近くまで堆積しており、黄河の水にはシルトが多く含まれていることがみてとれました。乾期であれば劉家峡の水もシルトが沈殿してもっと青く見えるようです。日本の風景や今までに経験した風景とは全く違う世界に来たという感じを肌で感じました。  高速艇が炳霊寺石窟に近づくにつれて(黄河流域に入ると)周りの山々の風景が一変し、神仙的な雰囲気(奇岩や巨岩が乱立しており、仙境と表現できる風景かもしれません。)を感じる風景になってきます。日本の山にはない風景です。途中でやっと雨が止み、一安心。
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画像7 中型船のメリットとしては、船外で景色を直接に見られることです。船尾のデッキと屋上のデッキで素晴らしい奇岩や巨石を見ることができます。風景写真が趣味の方であれば、是非撮影したい風景と思いました。
画像8 ほどなく、炳霊寺石窟の船着場に到着。船着場にある水上レストランで食事を摂ってから石窟の見学です。
画像9 食事の内容は、蘭州市のホテルでの食事とほぼ同じような内容と味付けでした。ただし、主食の米飯(ジャポニカ米と思われる)は、今回の旅行中で他には無い美味しさでした。日本人好みのジャポニカ米ではないかと思います。  この近辺では米作ができないため、他の地域で耕作した米を観光客用に購入している様です。米の調達先は、蘭州市の北東約4百キロメートルにある銀川平野(寧夏回族自治区:首都は銀川市)で耕作された米と思われます。銀川平野は秦代から黄河の水による灌漑施設がみられ、米の生産の盛んな穀倉地帯です。
画像10 井上靖氏(1991年没)の小説「敦煌」に西夏の女性が最初に印象的に登場しています。銀川平野はこの西夏王朝があった場所です。小説を読まれた方であれば、一度は訪れたい土地かもしれません。
画像11 昼食を済ませ、これから石窟に徒歩で向かいます。  石窟の桟道の一部が今回の雨で崩れて3日前までは通行できなかったとのこと。大変運が良かったようです。その他石窟、龕等に被害が生じたことが中国のサイトに掲載されていました。桟道は雨の後のため積ったシルトが溶けたチョコレート状態になっていて、歩くスペースをロープで囲ってありました。滑って転倒したり衣服が汚れることがないように配慮されたということでしょうか。。
画像12 炳霊寺石窟は、甘粛省臨夏回族(りんかかいぞく)自治州永靖県の西南約52㎞の小積石山にある紅砂岩の東向きの岩壁に約2キロメートルにわたって造られている仏教石窟です。白亜紀紅砂岩でできていて、風雨に浸食されやすい石質です。西秦(385年から431年)から清(1636年から1912年)にかけて岩肌に石窟が刻まれている。西秦、北魏、北周、隋、唐の各時代に掘られた窟(くつ)と龕(がん)は184個あります。仏像697体、泥塑像82体、壁画が約9百㎡、仏像の大きいものは27メートル、小さい仏像は10㎝。
画像13 炳霊寺石窟の地は、シルクロードの黄河の渡河拠点で、時代が海路に変わったため忘れられた石窟です。今回、特別窟である第169窟と第171窟は見学しませんでした。ただし、私自身高いところが得意ではないため、下を意識しないように努力すれば上り下りできるのでは・・・・と思っていますが。  地上から四〇メートルほどの高さの所にあり、木の梯子(手すりはあります)の角度約七〇度の傾斜のところを六つ程上る必要があります。費用は入場料の他に三百元必要です。最初に受付で支払うため途中でのキャンセルはできません。
画像14 最後に涅槃像が保管されてある対岸の涅槃殿で、今回の探検隊の隊員の山本さんにお経を上げて頂き参加者全員で合掌させて頂きました。異国の地でお経を上げて頂いた事で、何か身の引き締まる思いがしました。初めての経験でもあり感謝(国内での合掌とは何か全く違うものを感じました)。この涅槃像は第一六窟に安置されていましたが、劉家峡ダム建設の際に水没するため、いったん甘粛省博物館に移転され
画像15 第一七一龕には巨大(高さ二十七メートル)な盛唐代の弥勒大仏像があります。上半身石造、下半身泥塑で唐代(貞元一九年:西暦八〇三年)に造られた。柄霊寺石窟のシンボルとしてよく写真に登場します。
画像16 当時はこの大仏に木造の七重楼閣がありましたが破壊され、明代に九重漢蔵式楼閣で再度建築されましたが、現在は楼閣はありません。楼閣の制作には相当の費用と日数も必要としたのではと思います。楼閣があったということは、供養のためにこの地を多くの僧侶が訪れたということでしょうか。現在は、弥勒大仏の周辺には楼閣の木材の取り付け穴が残っているだけでした。書籍の写真では第一六九窟から第百七一龕の桟道には沢山の仏像が彫られており、この仏像の周辺には沢山の穴があります。仏像を覆うための建築物があったかもしれません。
画像17 大仏は真東向きで、左頭上の第一六九窟とともに、朝日が最初に差し込む場所です。ここは石窟でも特別な場所だったのではないかと思います。(石窟と大仏に朝日が差すのを一度みたい思いがしました。)また、巨大な大仏や楼閣などを造るのに少人数の僧侶ではできるとは考えられないため、制作に必要な僧侶の集団が近隣に居住でき、また生活物資等も供給できる都市社会がなければと感じました。
画像18 最後に涅槃像が保管されてある対岸の涅槃殿で、今回の探検隊の隊員の山本さんにお経を上げて頂き参加者全員で合掌させて頂きました。異国の地でお経を上げて頂いた事で、何か身の引き締まる思いがしました。初めての経験でもあり感謝(国内での合掌とは何か全く違うものを感じました)。この涅槃像は第一六窟に安置されていましたが、劉家峡ダム建設の際に水没するため、いったん甘粛省博物館に移転され
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画像23 今回はじめて参加した中国への歴史旅で、五感により東アジアの文明の源流ともいえる中国の歴史や文化等を身近に感じることができ、自分にとって今までにない経験であり大変有意義でした。歴史旅は九日間でしたが、旅行前、帰国後も今回の歴史旅に関連する事項について調べる事の楽しさもありました。歴史旅の楽しみがより一層広がった事に感謝しています。  なお、宝鶏市の通訳の馬さんにはいろいろな事に対応して頂き感謝しています。

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