中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」⑯「世界一高い応県木塔を訪ねて」 4 ヤブさん(薮下浩) 2024年2月6日 22:12 中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」⑯「世界一高い応県木塔を訪ねて」記録者山田久典隊員 十月二五日の訪問第一予定は応県木塔です。朝、五台山のホテルを出発。お昼前に到着し、門前の食堂で昼食となりました。 木塔周辺には、半径一キロ以内に中国各地に見られる高層アパート群は見られず、碁盤のような区画割りで観光地として整備されています。歩道、車道ともに広く、二階建ての商店が沿道にずらりと並んでいました。門前の一部を除いて活気があるようには見えません。訪問した時期によるものでしょうか。 応県木塔は八角形の五重塔で、木造建築では世界一の高さを誇ります(高さ六七㍍、底辺直径三〇㍍)。高さ四㍍の基礎の石組みは塔の形と同じではなく、四角形の入り組んだ形です。外観は五層で、一階の屋根のだけ裳階があります。内部は一層ごとに二階に分かれ、全部で九層になっています。各層の庇は浅く、全体的にやや丸みを帯び、ずんぐりした感じは風水や密教の円形を用いる建築手法の影響です。 日本の見慣れた法隆寺五重塔三一、五メートル、東寺五重塔五四、八メートル、薬師寺東塔三四、一メートル等は庇が深く、優美で穏やかです。応県木塔に近づくと全体が見えない。巨大で武骨で威圧感があり、圧倒され言葉がでません。数十人が各層の欄干に出て佇んでいても何の不安も違和感もないレベル。おそらく姫路城の天守閣の最上階より広いのではないかと思いました。 案内人の陳さんの説明を書く前に所在地と簡単な由来を記述します。 所在地は、中国山西省朔州市応県です。 北京市のほぼ真西に位置し、高速道利用で四時間五二分(三六七キロメートル)の距離にあります。正式名称は仏宮寺釈迦塔です。大同市からは真南に位置し直線距離で六〇キロメートル。濃尾平野程度と思われる平原の真中にあります。 一〇五六年、遼の第八代皇帝道宗(在位一〇五五~一一〇一)の治世に第七代皇帝興宗(在位一〇三一~一〇五五)の外戚、蕭孝穆が建立しました。この場所は、蕭家の菩提寺のあったところで、応県は興宗帝が深く愛した蕭皇后の出身地であったとされます。 塔が実際に完成したのは、造立が始まった一〇五六年から一四〇年後でした。 陳さんの説明によると、木塔の八角形の形状は道教に由来するもので、内部九層は皇帝の最高位九にも重なると言います。最初に塔が建立され、次に伽藍が造られました。第八代皇帝道宗の治世末期は、皇帝の庇護の元仏教界は隆盛を極めていました。しかし、平安末期の退廃した比叡山に類似したような時代で、僧侶と寺の横暴に朝廷は手を焼いていました。 塔の下には、現在は未公開ですが地下宮殿が有り、数十年かけて造られたといいますが、何故数十年という年月が必要だったのか疑問がわきました。 塔の建設には釘を全く使わず、繋肘木、通肘木等の木組みだけで構成され、数千トンの建物を支えています。一説では五千トン以上あり、姫路城五千七百トンと同等と考えられます。※右が記録者の山田さん 塔は、千年の間幾多の地震に耐え、特に元代の大地震で周辺の伽藍の建物が全て倒壊した中、塔は倒壊せず木塔建築技術の確かさを実証しています。塔の建築用材はこの地域の赤松を利用し、その量は三二〇〇立米に及ぶと言うことです。 塔は近代の戦争で被害を受け少し傾斜し、三階部分に補強のための筋交いが見えました。私は日本軍との戦闘によるものかと思いましたが、中国の軍閥閻錫山と馮玉祥による一九二六年の交戦によるそうです。 塔に目をこらしてみると千年を経たためか全体的に埃ぽっく、皇帝の直筆もあるという各階の扁額も色あせ、組木の部材も傷んでいます。檜の巨木と赤松の加工の難度の差、八角形の形状の複雑さか、長尺物や巨木を使用せず、試行錯誤しながら築造したからか、木材の加工については荒削りで、継ぎ目も隙間だらけに見えました。日本のように精巧に加工し、組み込まれているようには見えません。がさつに思うのは日本の木造建築への思い入れが強いからでしょうか。 一階に入ると内部は真っ暗でした。内部は撮影禁止。暫くして目が慣れてきて判別できるようになりましたが、照明は最低限です。内部は二重構造で土壁の中に大きな釈迦座像(一一メートル)と両側に立像がありました。日本のように心柱がありません。塔の中心部は自由に使える空間で、心柱が耐震の重要要素である、という私の先入観が打ち壊されました。仏の台座に龍の像を使用できるのは皇帝と関係のある証拠です。 二階へは保存のために近年になって立ち入り禁止。見事な仏が各階に鎮座しているといいますから是非とも見たいと思っていましたが残念でした。内部の土壁には仏画や縁起物が描かれていますが、剝げ色あせていました。 一階の拝観終了後、釈迦座像の後ろを回って外に出ました。大雄宝殿、観音殿、地蔵殿に行きました。これらの建築物は明代の建立とされます。内部には近年に制作されたであろう金色の仏が安置されていました。文革で古い物が破壊され作り直されたものでしょうか眩しいばかりです。 木塔から出る時、この木造の巨塔を築くに百数十年を要したのは何故か?地下宮殿築造の数十年でも長いと感じるのによく持続できたものです。西ヨーロッパ諸国の教会建築(パリのノートルダム大聖堂は一八〇年)と同じ信仰心で臨んでいたのでしょうか? 同行の隊員が、仏塔を建てる信仰心だけではなく、敵を見張る望楼としての要素に重点があったにちがいない、ということを言われていました。実際ここに来る途中で七キロ手前の高速道路からも塔を見てとれました。塔から見れば敵の動きは一望だったことでしょう。 #中国歴史旅 #岐阜市歴史探検隊 #応県木塔 4 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート