歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」⑤ 河西回廊の西域「嘉峪関」を訪ねる

画像1 歴史探検隊中国歴史旅ノート「敦煌と太白山」⑤ 河西回廊の西域「嘉峪関」を訪ねる 記録者:熊田正雄隊員   中国歴史旅の2日目(10月16日)、宝鶏市のホテル溶海夢酒店を出発して、5百メートル先の宝鶏南駅に向かう。駅前再開発の為に、駅の手前で右、左、右へと迂回して高速鉄道駅に着く。空港並の厳しいチェックを受けて列車に乗り込む。今日の旅は河西回廊を東から西へ縦断します。
画像2 河西とは、中国甘粛省の黄河から西祁連山脈の北側に沿った狭長な地域で、俗に河西回廊といわれ、シルクロードの東端を形成しています。  中国漢の武帝は、ここを占拠していた匈奴を撃退、東西貿易路を確保しました。紀元前一世紀頃、そこに河西四郡として、酒泉、武威、張掖、敦煌の四郡を置きました。今日はまさにそこを縦断します。 天水南駅、民和南駅、楽都南駅を通りすぎると、青海空港が右側に見えた。西寧を過ぎた頃から、広大な牧草地帯を走る。民楽駅、張掖西駅、を経て、四時頃に嘉峪関南駅に着きました。
画像3 駅前で迎えのバスに乗り、嘉峪関城に向かう。今日から18日まで御世話になるガイドは方艶青さんです。  嘉峪関城は、河西回廊の一番狭い場所にあり、古くから東西交通の要衝でした。万里の長城の西端であるこの地に、北辺の前線基地として、嘉峪関城が設けられ、東には酒泉、西には玉門、後ろには里山、そして南には祁連があります。
画像4 嘉峪関城は、明の成立間もない一三七二年に、初代皇帝朱元璋の片腕であった将軍馮勝が、北方のモンゴル族伐に集中するため、度重なる吐蕃(チベット)族の侵入に手を焼いていた南方の守りのために築いたのが始まりということです。  長い坂を登り、外城より内城に入りました。東閘門から入り、文昌閣の前で記念写真を撮り、中に入りました。
画像5 関羽を祀った関帝廟や戯台があり、さらに光化楼をくぐった所に何の変哲も無い石がありましたが、その石には一つの伝説がありました。
画像6 「その昔、ここで暮らしていた二羽の夫婦ツバメが外出したところ帰りが遅くなり、砦の門が閉じられてしまいました。兵士も彼らの存在を知っていたので、ツバメは兵士に開門を頼みましたが、当然ながら命令に背いて夜に開門すると処刑されることを恐れ、兵士はその頼みを聞きませんでした。砦の周囲には羽を休める木々や家々もなく、結局真っ暗な帳の中でツバメは行きバメは行き場を失い、砦の鉄門にぶつかって命を失いました。  それ以降、そのつがいのツバメの魂が砦に宿っており、この石を叩くとそのさえずりが聞こえる、というのです。
画像7 その後、砦の兵士たちはいくさの為に城門を出るときに足を石に打ち付けることが習わしになりました。  そして鳴き声のような木霊が周囲の城壁に伝わって帰ってくると、兵士たちは無事に城に帰れるという縁起を担いだ」ということでした。  光化楼から城壁の上を歩いて柔遠楼に行きます。この楼閣の下、内庭を囲む縁の部分のレンガの中に、昔から一つだけ塀に固定されていないレンガがありますが、ここにもう一つの伝説がありました。
画像8 嘉峪関が作られた頃、非常に腕の立つ職人が「九九,九九九枚のレンガが必要になります」と役人に申告しました。驚いた役人はもし一枚でも余ったらば、首をはねると脅しました。工事が終わるとすべてが完璧に作られていました。さすがに役人は驚いたが、ほどなく楼閣の裏手の一枚のレンガに気がつきました。これに怒った役人は、職人を捕らえて斬首にしようと思いましたが、職人は「このレンガは、砦を安定させ永久のものとするための最も大切な最後の一枚です。これが無ければこの砦は崩れてしまいます」と役人に伝え難を逃れました。
画像9 どう考えてもレンガが一枚だけしか余らないということはなかろうが、それだけ精巧に作られていたということを物語るエピソードです。この伝説が広まって以降、このレンガは動かすと砦全体が崩れてしまう要石として、触られることもなくここに置かれ続けられているといいます。  その後、嘉峪関城楼門をくぐると外に扁額が掲げられ、まさにこれが外敵に対する関所であることを実感しました。関所の西北は万里の長城へ繋がっています。
画像10 時間も遅くなりホテルに戻った。ガイドの方さんに、王維の「渭城の朝雨 軽塵をうるおす」で始まる七言絶句を詠んでいただきました。  送元二使安西 王維 渭城朝雨浥軽塵  いじょうのあさあめ けいじんをうるおす  客舎青青柳色新  きゃくしゃせいせい りゅうしょくあらたなり 勸君東尽一杯酒  きみにすすむ さらにつくせ いっぱいのさけ 西出陽関無故人  にしのかた ようかんをいずれば こじんなからん※右端が記録者の熊田隊員。左に竹市、南城、薮下です。

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