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とわこちゃん

小学生の時、自分の名前にある漢字を習った日をいまでも覚えています。
それまで名前はすべてひらがなで書いていて、漢字で名前を書ける同級生が、少しじゃなくてめちゃめちゃ大人びて見えていました。だから、さんずいが付くあの漢字を学び、次のテストで堂々とその漢字を名前の欄に書いたこと、それはそれで全く覚えていないけれど、小さな夢が確かに叶った瞬間でした。

小さい頃から、母の勧めで英語を学び始めました。そこから英語を使うお仕事に就きたいと憧れの職は二転三転し、大学に入学してまた夢ができました。気が付けば二十歳を迎え、その夢を叶えられるときを迎えてしまいました。かっこよく言えば、時は満ちた…となりますが、いやいやそんなことはなくて。抱いた夢を実現するためにはあまりにも準備不足で、高校卒業時よりもスタートラインから遠ざかっていたように思います。ね、それはわたし一人では気づくことができなかったから、誰かと比べて、焦る気持ちを持って、重い腰を動かせたと思うのね。ただ、わたしは、わたしだけは、いつまで人と比べて、人からの評価を第一にしてしまうのか、ここ最近とても、なんというか、恐れというか、なんというか、単純に疑問でしかなくて。他人には簡単に好きにしたらええんや、と言えるのに。自分の人生なんだから、納得のいくように選択していけばええんや、と言えるのに。どうして自分のことになるとそうはいかないんだろう、と不思議に思います。

いやいや、他人のことだから無責任に何とでも言えるでしょ。
いやいや、そうやけどそうじゃないやん。
いやいや、そしたら何ですかね。
なんですかね~~~~~~~~

自分の選択に自信が持てないこと、自分の自由を一番許せないこと、これですかね。なにはともあれ、自分に自信がないんですかね。無いと思います。無いんですよ。無いものは、ないの。だからこそそんな自分が抱いた夢が叶うわけないと一番近くで呪っていたのはわたしで、どこかで「どうせ」と思い込んで怠けていたわたしがいたのも事実で、その甘えにいろんな方々を巻き込んで時間を奪ってしまったのも事実で。ぽつぽつ書き出せばどばどば出て来て、あーだめだ、わーやっちゃった、わたしだめだ、だめだって結論に戻ってきたかったわけじゃないのに戻ってきちゃうのは以前から全然変わらないです。

身近な友人に、夢を叶えた、というか夢叶えた(仮)がいるんです。半年後に仮は取れます。その連絡が来た時、なんて言葉を還したら良いのか分からなかったんです。いや、まずはおめでとうだろうと思って、それは多分、伝えられたと思うんですけど。彼女がこれまで目標に向かって諦めまい、と幾度なく挑んでいた痕跡はちらほら見ていたんですけど、ね。そうした過去を忘れてしまうくらいわたしは、あー、この子は叶う側の人だったんだ、なんて線引きをしてしまいました。ちがうのに。違うのに。夢を叶えようと努力し続けられた側の子。わたしとは、そう。そういうことだと思います。だからといって、そう思ってしまうからと言って、やっぱり覚えておかないといけないと思うんです。未来のわたしには、覚えていてね。きらきらしているように見える人たちが、必ずしもそうでないことを。その友人もずっと悩んでいたのを知っているし、これからどんな素敵なことに出合うかという期待と同じくらいどんな酷な事態を目の当たりにするかという不安もあると思うから。見えている面だけが必ずしもそうでないことを、視野が狭まっているときだからこそ、思い出してね。

とわこちゃん
教えてくれてありがとうございます。
もうすぐ夏が終わるけど、網戸の取れ具合はいかがですか。