管長日記「十牛図を語る」解釈20241028
円覚寺は鎌倉シャツというメーカーと縁があるという。「副社長の貞末哲兵さんが、よく円覚寺の日曜説教にお越しになっていて、ご縁ができました。鎌倉シャツさんが作務衣を作っているというので、いろいろとお世話になるようになったのです」という。そもそは営業ではないようだが、このような縁を考えてみるとおもしろい。
たとえば、鎌倉シャツが円覚寺に売り込みを掛ける場合はどうだろう。和服についての商品開発のマーケティングして見込みを付けて、円覚寺の坐禅会などに参加して調査するなどして、作務衣を調査したのかもしれない。
また、創業30年とあるので、もともと檀家さんと縁が有って、そこから繋がったのかもしれない。円覚寺の方から、作務衣を作ってくれるところを探すこともあるだろう。または、あるとき鎌倉シャツの社員教育としてたまたま円覚寺に参って、そこで思いついた、とか。
そもそもの副社長の動機とか、日曜説教からの知り合いになるまでの経緯とか。お寺としては、あまり商業的な方法は疎い、もしくはそんなに興味が内容に思う。プライドや歴史的な重要性は意識しているだろうが、それは自分たちの態度に反映するのであって、取引に積極的に利用するといった態度でも内容に感じているが、本当のところはどうだろう。
商業的な観点で、お寺というものを見てみるのも面白いのかもしれない。
構成:
1.鎌倉シャツのこと
2.作務衣のこと
3.十牛圖のこと
4.当時の中国における牛
5.インドにおける牛、お釈迦様のこと
■1.鎌倉シャツのこと
坐禅会は今年で2回目。
「昨年は、私が作った『パンダはどこにいる?』の絵本をもとに話をしました。」
「今回は、十牛図について話をしたのでした。」
「昨年の十二月に初めて円覚寺で、鎌倉シャツのみなさんの坐禅の会が行われて、今回二度目となりました。」
つまり、今では社員教育的なことでもお付き合いがあるという感じ。そうでなくても、営業的な意味で、お付き合いはしていてもおかしくはない。
■2.作務衣のこと
歴史的なことが分かる。
「作務衣というのは、今日お寺の和尚さんの作業着として定着していますが、そんなに昔からあるものではありませんでした。
戦後になってから作られるようになったものです。ですから、私が師事してきた老師方は、作務衣は伝統のある衣装ではないという意識をお持ちでした。ですから正式の場においては、作務衣は着てはいけないと言われていたものでした。
もともとは着物にたすきをかけて、掃除や作業をしていたのでした。それからモンペのような作業着ができるようになって、今日のお寺の作務衣が出来てきたのです。今ではお寺のみならず、いろんな方も着るようになっています。
岩波書店の『仏教辞典』には「作務」についても書かれています。「『祖堂集』5に「仏地の西に至りて作務の所有り」とあり、農耕作業や掃除などの肉体労働をさす。もともとの戒律によれば、比丘が労働に従事することは禁じられていたが、禅門では自給自足を原則とし、上下が力をあわせて共同作業をすることを修行として重要視する。<普請>に同じ。なお<作務衣>は、作務のときに身につける衣服の称。」と解説されています。
「『仏教辞典』の解説にある通り、もともとお釈迦様の教えでは、労働をすることは禁じられていたのでした。
お坊さんは、町で托鉢して食べ物を施してもらって、それをいただいて、もっぱら瞑想修行に励んでいたのでした。
仏教が中国に伝わってから、おそらく托鉢だけで暮らしてゆくことが困難になって、労働せざるを得なくなったのだろうと推察します。そこで自給自足の暮らしをせざるを得なくなったのですが、その労働に積極的意味を見いだして作務をするようになっていったのです。
今でも作務をすることを尊んでいます。私などは、修行をはじめた頃からすでに作務衣はありましたので、違和感なく作務衣を使わせてもらっています。」
作務について、古い文献は祖堂集(そどうしゅう)とされる。五代十国の南唐の静・均の二人の禅僧によって952年(広順2年)に編集された中国禅宗の灯史である。唐代の801年(貞元17年)に成立した洪州宗系統の智矩が編纂した燈史、『宝林伝』の後を受けて編纂されている。
「百丈和尚嗣馬大師,在江西。師諱懷海,福州長樂縣人也,姓[A56]王。~」のところが有名だろう。
《祖堂集》卷14:
師平生苦節高行,難以喻言。凡日給執勞,必先於眾。主事不忍,密收作具,而請息焉。師云:「吾無德,爭合勞於人?」師遍求作具,既不獲,而亦忘飧。故有「一日不作,一日不食」之言,流播寰宇矣。
■3.十牛圖のこと
「数種が存在したようであるが、古く日本で流布したのは廓庵師遠(かくあんしおん)のもの(12世紀)で、「本来の自己」を牛になぞらえ、禅修行を逃げ出した牛を連れ戻す過程として表現している。各章の内容を掲げれば、次のごとくである。
<尋牛(じんぎゅう)>自己喪失の自覚。不安に襲われた段階。
<見跡(けんせき)>経典・祖録によって本来の自己への糸口をつかんだ段階。
<見牛>修行によって本来の自己に目覚めた段階。
<得牛>修行の進展で、本来の自己をつかんだ段階。
<牧牛>つかんだ自己を自分のものとする段階。
<騎牛帰家(きぎゅうきか)>本来の自己を自分のものにした段階。
<忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)>自己と完全に一体化し、意識にすら上らなくなった段階。
<人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)>主体すら無くなった絶対無の段階。
<返本還源(へんぽんげんげん)>現実世界への回帰が起こる段階。
<入廛垂手(にってんすいしゅ)>自然に人々の教導へと赴く段階。」
と丁寧に書いてくれています。」
なぜ牛の絵なのか、と質問を受けたという。禅について勉強を始めると、いつの間にか頭に入っていて、このようなことは疑問に感じなかった。というか、はじめは疑問だらけなので、とにかく覚えようとしたのだろう。牛については、神聖な動物、というようなイメージがあったかもしれない。
■4.当時の中国における牛
「唐代の禅僧南泉普願禅師が、いよいよお亡くなりになる時、修行僧が、和尚は亡くなってどこに行かれますかと問いました。すると南泉禅師は、山の麓で一頭の水牛になって生まれてくると答えました。僧が、私もお伴してよろしいでしょうかと聞くと、私についてくるのなら、自分の食べる草をくわえて来いと答えています。
同じ時代に活躍された潙山禅師というお方もまた、死んだ後には、麓の檀家の家に一頭の水牛となって生まれ変わって来よと言っています。」
南泉普願は馬祖道一の法嗣、潙山靈祐は、馬祖道一の法嗣の百丈懷海の法嗣。
上の南泉禅師のエピソードは、例えば汾陽無德禪師語錄にある。
《汾陽無德禪師語錄》卷2:
僧問南泉。和尚百年後。向什麼處去。泉云。向山下檀越家。作一頭水牯牛去。云某甲隨和尚去得也無。泉云。爾若來。銜取一枝草來。類中難辨要分明。戴角披毛卒未惺。銜取草來方定動。頭頭物物現真靈。
ただ、この言葉のあとには別のくだりとなるものが多い。例えば、
《大慧普覺禪師語錄》卷1:
乃舉趙州問南泉。知有底人向甚麼處去。泉云。山前檀越家作一頭水牯牛去。州云。謝師答話。泉云。昨夜三更月到窓。雲峯云。南泉若無後語。洎被打破蔡州。師云。雲峯老人失却一隻眼。殊不知只因後語。當下打破蔡州。
潙山禅師については、景徳傳燈録を引用する。
《景德傳燈錄》卷9:
師上堂示眾云。老僧百年後向山下作一頭水牯牛。左脅書五字云溈山僧某甲。此時喚作溈山僧。又是水牯牛。喚作水牯牛。又云溈山僧。喚作什麼即得(雲居代云。師無異號。資福代作圓相。托起古人頌云。不道溈山不道牛。一身兩號實難醻。離却兩頭應須道。如何道得出常流)
■5.インドにおける牛、お釈迦様のこと
「またお釈迦様の国インドでも牛はだいじな動物でした。今年の二月にインドにお参りした折にも町に牛がたくさんいるのを眼にしました。お釈迦様のことをゴータマとよくお呼びしますが、これは最上の牛という意味の言葉です。
またお釈迦様がお亡くなりになるときに説いたと言われる『遺教経』には、
「汝等比丘、已に能く戒に住す。当に五根を制すべし。放逸にして五欲に入らしむること勿れ。譬えば牧牛の人の、杖を執って之を視せしめて、縦逸にして人の苗稼を犯さしめざるが如し。若し五根を縦にせば、唯五欲の将に崖畔無うして制すべからざるのみにあらず。」
という一文があります。
お釈迦様はお亡くなりになるにあたって弟子達に自分の滅後には、戒をよりどころとするように言い残されました。
そこで更に戒をたもったら、眼耳鼻舌身の五根を制御すべきたというのです。五根を欲望のままにしてはいけないと説かれました。
それはたとえば、牛を飼う人が、牛がよその畑の作物を荒らさないように杖をもって牛に見せて、牛を制御しないといけないというのです。」
遺教経 (ゆいきょうぎょう)
中国の漢訳仏典の一つ。クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳。正しくは,《仏垂般涅槃略説教戒経》で,仏が入滅に際して,弟子たちに与える最後の言葉を集めたもの。内容は,持戒をすすめて,これがいっさいの徳行の根本とするのが特色。早くインドで世親の《遺教経論》がつくられたほか,宋代に真宗が御注を加え,禅宗では《四十二章経》《潙山警策》と合わせて仏祖三経として尊重した。日本では,枕経として読誦される。
佛垂般涅槃略說教誡經の始めのところだろうか。
《佛垂般涅槃略說教誡經》卷1:
「汝等比丘,已能住戒當制五根,勿令放逸入於五欲,譬如牧牛之人執杖視之,不令縱逸犯人苗稼。若縱五根,非唯五欲將無[3]崖畔不可制也,亦如惡馬不以轡制,將當牽人墜於坑[4]陷。如被劫害苦止一世,五根賊禍殃及累世,為害甚重,不可不慎。是故智者制而不隨,持之如賊不令縱逸;假令縱之,皆亦不久見其磨滅。此五根者,心為其主。是故汝等當好制心,心之可畏甚於毒蛇、惡獸、怨賊,大火越逸,未足喻也。[5]譬如有人,手執蜜器,動轉輕躁,但觀於蜜不見深坑,譬如狂象無鈎、猿猴得樹,騰躍[6]跳躑,難可禁制,當急挫之無令放逸。縱此心者喪人善事,制之一處無事不辦。是故比丘,當勤精進折伏[7]其心。」
「汝等比丘,受諸飲食當[8]如服藥,於好於惡勿生增減,趣得支身以除飢渴。如蜂採花,但取其味不損色香;比丘亦爾,受人供養[9]取自除惱,無得多求壞其善心。譬如智者籌量牛力所堪多少,不令過分以竭其力。」
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