管長日記「来たれ、修行僧よ」解釈20241031
「具足戒ということばがあります」といきなり本題から始まる。仏教の講座っぽいので、この始め方はよいものだ。戒律ということば自体が宗教的で、日常なら法律といったことになるのだろうが、こうなるとどうも損得の判断材料になってしまいそうだ。憲法は公共といった範囲なので、個人に落とすにはもう一工夫いる。信条といった言い方が近いのかもしれないが、こうなると大体心の問題ではなくなり、大体は欲求の満足を図るものになるだろうか。もちろん、人による。
戒律はそれが推奨されることとしても、仏教のいう個人的な決まりとなってしまう。基本は苦しみをなくすことのための、個人的に意識しておく行動規範といったことだろう。ただ、「教え」として初めはインプットされることになるので、その数が問題になるだろう。
また、戒律というと、受け身の消極的な感じになってしまう。積極的にするなら、八正道、六波羅蜜とかの方が自然だ。
四弘誓願も目標という意味で、前向きでよいと思う。
お寺では、修行の儀式的なことと関係するので、なかなか考えどころなのだろう。
構成:
1.辞書的な意味
2.仏陀のとき
3.三帰依から二五〇の戒(大乗の前)
4.大乘仏教の戒
5.梵網經の十重禁戒四十八軽戒
6.修行僧の反応
■1.辞書的な意味
「〔仏〕比丘・比丘尼の守るべき規則。部派によりその数は異なるが、比丘に250戒、比丘尼に348戒が代表的。」(『広辞苑』)
「比丘(びく)・比丘尼(びくに)、すなわち正式に出家した男女が、僧伽という集団内で守るべき戒律の学処を総称したもの~
諸部派で規定された学処の条数(戒律の数)は異なり、南方上座部(じょうざぶ)では比丘は227条、比丘尼は311条を数え、東アジアの漢訳文化圏では『四分律(しぶんりつ)』に従い、それぞれ250条、348条とされた。」(岩波『仏教辞典』)
固定的なものではない、という点を意識しておく。
■2.仏陀がいたとき
「もともとはというと、善来具足戒というものがはじめでした。
それは、お釈迦様がはじめ悟りを開かれて、サールナートで五人の修行者に法を説いて示された時のことでした。」
中村元『ゴータマ・ブッダ上』(春秋社)より:
「『さて尊者コンダンニャは、すでに真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、疑いを超え、惑いを去り、確信を得て、師の教えのうちにあって、他の人にたよることのない境地にあったので、世尊にこのようにいった、
「尊い方よ。 わたしは世尊のもとで出家したく存じます。 わたしは完全な戒律を受けたく存じます」 と。
世尊はいった、「来たれ、修行僧よ。真理はよく説かれた。 正しく苦しみを終滅させるために、清らかな行ないを行なえ」 と。
これがかの尊者の受戒であった。」
(後には、舎利子が出家を希望する五〇〇人を連れてきた時)
「善来、比丘。梵行を修すべし」
「善来具足戒」というのは、お釈迦様もとで出家し具足戒を受けたいと願う者に対して、お釈迦様が自ら「来なさい。自分のもとで梵行を修せよ」
この具足戒によって比丘となったのです。
■3.三帰依から二五〇の戒(大乗の前)
「それから後に、「三帰依」が説かれるようになりました。」
「帰依仏、帰依法、帰依僧」、出家や在家の戒を受ける際の基本的条件、<三帰戒>
在家の人には、「五戒」が説かれる。
五戒は在俗信者の保つべき五つの戒即ち習慣で、不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪婬(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)の五つ。
原始仏教時代にすでに成立、他の宗教とも共通した普遍性をもつと言われる。それに以下の三つを加えると八斎戒となります。
装身具をつけず歌舞を見ないこと
高くて広いベッドに寝ないこと
昼をすぎて食事をしないこと
「それから出家した比丘には、二百五十もの戒が説かれるようになりました。」
■4.大乘仏教の戒
数が多くなった反動なのか、大乗仏教では、少ない条文の戒が説かれるようになる。
『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』「三聚浄戒」
摂律儀戒(しょうりつぎかい)・摂善法戒(しょうぜんぼうかい)・摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三つ (悪いことをしない、善を行う、衆生を渡すの三つ)
「日本における授戒は、鑑真和上によって七五四年(天平勝宝六)四月に東大寺大仏殿の前の戒壇でなされたのが最初です。
鑑真和上は、聖武上皇・光明太后らには、僧俗に通じる菩薩戒を授戒したようです。
また、僧侶には『四分律』に基づいて二百五十の具足戒を授けていました。」
■5.梵網經の十重禁戒四十八軽戒
「しかし、そのような戒を授ける戒壇は小乗の戒壇とし、比叡山延暦寺に梵網経に説く大乗菩薩戒を授ける大乗戒壇の樹立をめざしたのが伝教大師最澄でありました。」
「伝教大師は、『梵網経』によって十重禁戒四十八軽戒でよいとしたのでした。
しかしこの大乗戒壇が公認されたのは八二二年(弘仁一三)六月、伝教大師がお亡くなりになった後一週間してのことでした。
道元禅師は、三帰依戒と、三聚浄戒と十重禁戒でよいとして十六条戒を説かれました。
また十善戒というのもあって、江戸期の慈雲尊者はこの十善戒を説かれています。」
「さらには「一心戒」というのもあります。「衆生の根底にある絶対的な一心にもとづく戒」、自性清浄心に基づいています。本来きよらかな心があれば戒はおのずと保たれていくという立場です。
善来具足戒は、お釈迦様に「来たれ、修行僧よ、ともに修行しよう」と言われて、お釈迦様のもとで修行しようという心があれば、それで十分戒は保たれるというものです。」
他に「それから三帰依戒、五戒、八斎戒、更には二百五十の戒へと増えていったのでした。その反動か、また十重禁戒、十善戒、四十八軽戒と少なくなっていって、一心戒にまでなっていったのでした。」
■6.修行僧の反応
「なんと、多くの修行僧は、善来具足戒でいいという答えでした。
中には道元禅師の十六条戒がいいという者もいましたし、五戒がいいという者もいました。一心戒がいいというのも数名いました。」と、老師は驚く。
ちょっと意外だ。十善戒が一般的だろうと思う。一つが良いという考えは、幾つもあっても意味がない、と取りたい。修行僧という言葉だが、素人ということではない。結局矛盾するところがあるというのではなかろうか。
「ただ一つだけというのは、端的でいいのですが、気をつけないと堕落してしまう恐れもあるものです。
修行道場の布薩では、三帰依、三聚浄戒、十善戒に十重禁戒を唱えています。
お釈迦様はお亡くなりになる前に、「是れを以て当に知るべし。戒は第一安穏功徳の所住処たるを」と仰せになっています。
戒を持つことは、安楽なのであります」と、老師は必要なものであって、戒はよいもの、「安楽」という。