漢文仏典について(5)

日本において仮名文字が目立つ有名な仏教文献は『正法眼藏』ではなかろうか。作者の道元は鎌倉時代の禅僧で、中国に渡り天童如淨より法を継いだ。中国では、立場的につらい状況から名門で認められるまでの様々な経験をしており、中国語も使いこなしたに違いない。その代表作、というかライフワークが『正法眼蔵』なのだが、なんとも変なところがある。和文(古文)っぽく見えるのだが、訓読文だったり、漢文そのままが入っていたりする。なんとなくだが、訓読っぽい古文なのではなかろうか。文脈や表現が言い切りで、評価、批判、主張の強い論文調である。引用中心の親鸞の『教行信証』とは違い、自由なのだが、禅であるからだろうか。

末木文美士は「かなり中国語ができたとおもわれるのですが、実際には道元の漢文にはおかしなところがあり、その語学力にはいささか疑問があります」という。「身心脱落(しんじんだつらく)」という如淨のことばを聞いて悟ったようだが、実は「心塵脱落」を聞き間違えたのではないか、という説もあるようだ。「心塵』はxinchen、「身心」はshenxinであり、聞き間違えないだろうが、「心身」とするとxinshenであり聞き間違えたか、とも書かれる(末木『日本仏教史』p.354)。

『正法眼蔵』は本格的に仏教、禅の思想を記述した点で、日本人の仏教書として希なものである。その『正法眼蔵』の難しさは、言葉と文章の表現の努力、工夫の産物だからなのではないか、という考え方も理解できる。つまり、中国語と日本語はそもそも違うということだ。ともかくも、意味を解釈して書き下そうとするがゆえに、なんとも言えないミックスされた感じの文章になったと。

道元は、「一切衆生悉有仏性」、一切衆生に悉(ことごと)く仏性あり、というのを、「悉有は仏性なり」と読んでいる。このことばは如来蔵思想の仏の種子、仏に成れる可能性を言うと思うが、「悉有は仏性なり」というのは、一切の存在(有る物事)は仏性である、ということである。あるものすべてが仏性だ、という意味だが、この意味は禅としては何ら不思議には思えない。禅の悟境表現はもっと極端なものであって、また論理や言葉の元々の意味を破壊するので、むしろ道元の「悉有は仏性なり」はきれいな言葉だろう。しかし、涅槃経のことばとしてはおかしい感じがする。理論的にこのことばを出すには、華厳経のインドラ網、事事無礙とか理事無礙みたいな武装が必要だろう。

末木文美士は、「悉有は仏性なり」は訓読の、日本語の文を読むときの発想ではない、という。「いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり」と、「悉有」、「有」、「仏性」などの語を意味表示の指示機能(signifier)として扱っている、という考え方なのだろう。こうなると、実は漢文ですらない。哲学、存在論、記号論に近い。日本語と中国語のはざまに置かれると、共通で扱える「語」がフォーカスが置かれ、独特とも言える理論が出来上がるのかもしれない。

参考:末木文美士、日本仏教史、新潮文庫、1996

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