管長日記「降魔」解釈20241210

管長日記では取り上げられてこなかったテーマかもしれない。「魔」というのは釈尊の想像、意識の中での対象であって、それを擬人的や現象的に言葉で表現したものだと思っていた。神もそうだろう。だから妄想といってしまえばそれまでなのだが、「釈尊の成道・開教・涅槃にあたって<魔>はつねに中心的な役割を果たしているのである」(『仏教辞典』岩波)。大智度論には蘊魔・煩悩魔・死魔・天子魔の四つがあるという。仏教の<魔>はキリスト教など他宗教の悪魔とは著しく性格を異にする、とも書かれる。

構成:
1.降魔の意味、
2.釈尊成道の際の降魔、魔女との戦い
3.釈尊成道の際の降魔、一億八千の鬼神との戦い
4.釈尊成道の際の降魔、悪魔の撤退

現代風に喩え直すとどうなるのだろうか。
また喩えではなく説明するには、などと思った。
このような喩え方はたぶん3千年、4千年と続いてきたのだろうから、とらえ直すのは難しいのだろうか。

■1.降魔の意味、
「降魔という言葉があります。円覚寺に入る橋があって、それは「降魔橋」というものです。」

降魔:「〔仏〕悪魔を降伏すること。」
降魔の印:「悪魔降伏の印相。右手を右膝の前で大地に触れ、左手で衣をつかむもの」
釈迦八相:「〔仏〕釈迦牟尼がこの世に現れて衆生に示した八種の相。降兜率・入胎・住胎・出胎・出家・成道・転法輪・入滅。または、住胎のかわりに、出家のあとに降魔を入れる。八相。八相成道。」
  以上、『広辞苑』

「お釈迦様のご生涯でもとても大切なのが、この「降魔」です。成道は、降魔によってなされたともいえます。」

降魔:「悪魔を降伏させること。ブッダ(仏陀)の伝記の八大事件(八相成道)の一つ。ブッダが悟りを開かれた際に魔王(波旬)をはじめ多くの悪魔・魔女たちが脅迫・誘惑して成道の妨害を企てたが、このときブッダは右手で大地を指差して悪魔を退散させた。この姿から左手で衣をとり、右手を右膝の前で大地に触れる<降魔印>(触地印(そくじいん))の印相(いんぞう)ができている。」(『仏教辞典』岩波書店)

■2.釈尊成道の際の降魔、魔女との戦い
「苦行では悟れぬと気がつかれたお釈迦様が、スジャーターのほどこしを受けて、更に草刈りの草を施されて、坐禅されたのでした。
そのときにお釈迦様は、「我いま証を得られぬなれば、生きて此の座を立たぬであろう」と決意されたのでした。」

「悪魔の宮殿は、このために震い動いて大きな恐惶(おそれ)を惹起こし、魔王は毒を呑んだように打悶えた。」(『仏教辞典』大法輪閣)

「悪魔にしてみれば、お釈迦様に悟りを開かれてはたいへんだと思ったのです。なんとかこれを邪魔しなければと思ったのでした。まさに修行の邪魔をするので「魔」なのであります。」

このことは、釋尊が語ったところにあるのだろうか。それとも、魔物に襲われたという心の経験があって、それを妄想と知っていながらも、煩悩のより深いところである魔王というものを作り出したのだろうか。いわんとするところは、魔というのは組織的、体系的ということかもしれない。または葛藤とか。

「まず悪魔が取った方法は、魔女を遣わすことでした。」

そして三人の魔女を遣わして太子の心を乱そうと企み、薄衣の羽衣かろく、瓔珞の花美しく着飾った妖艶な魔女等を太子に近づかしめて、あらゆる媚の限りを尽くして、優しく舞い麗しく歌わしめた。

春は来ぬ、春は来ぬ、日のひかり暖かに、若芽萌え出でぬ。
好き君よ、いかなれば、若き楽を捨てて、遠きさとりを求め給う。
美しの、われらを見ずや、浮世をはなれし、仙者さえも、愛染の心、起こせしものを。

「とお釈迦様に三人の魔女が近づいて誘惑したのです。しかし、お釈迦様は、そんなことでひるむわけはありません。」

太子は、彼等に語り給うた。
汝等は善き果報によって、いま天身を得ているが、やがて無常の老死に襲われよう。
形は妖かであるが心は端しくない。
それは美しく彩画した瓶に、臭い毒を盛ったようなものである。
欲は身を亡す本、死して悪道に堕つる因である。

この語によって、忽ち三人の美しさは失われ、浅ましい老婆の姿と化った。

誘惑にも微動だにしないお釈迦様のお姿が彷彿とします。

「しかし、悪魔はそれくらいであきらめるわけではありません。」

ここにおける戦いは、誘惑という攻撃に対する防御だろう。またことばが詩文となっている。このあたりは、インドもヨーロッパも同じか、もしくはインドが先か。単語を並べたような言い合いというのは、人類共通なのかもしれない。井筒俊彦『言語と呪術』でいう、アニミズムの時代、「呪術時代」がベースにあるのだろう。また、「たやすくわかるように、言葉に関わるあらゆる種類の迷信を生み出す傾向がある」(p.27)ので、その背景があって釈尊は、特に喩えというつもりもなく、当たり前に表現しただけなのかもしれない。呪術時代としては、例えば、イシン第一王朝(紀元前2017年頃-1794年頃)とハンムラビ王の時代(在位紀元前1792年頃-1750年頃)が挙げられて、その祈祷文の詩文が紹介される。

■3.釈尊成道の際の降魔、一億八千の鬼神との戦い(前半)
魔王は大いに怒り、直ちに一億八千の鬼神を集め、弩を放ち剣戟(けんげき)を閃かして、畢波羅樹の下へと押しよせた。

天地は暗く雷鳴は凄じい。

師子や熊、牛や馬の首をつけたもの、人の頭に蛇の身をつけたものなど、すべての、異形異類の姿をした悪鬼夜叉等が、牙を噛み爪を光らし、毒の火をはき鉾の雨を降らして太子に迫った。

ここにこの世の教主と大魔王との間に、大戦闘は開始せられた。

「実にいろんな姿をした悪魔が襲ってきたのです。そのすさまじい様子は、(次のように)説かれています。」

空には一千の星がながれて、黒雲うずまき、 大地大海は颶風(ぐふう)にあおられて、葡萄の花房のように震う。
大洋は海嘯(つなみ)を起こし、河水は逆立って、千年の古木を繁らせた山山を崩し、振蕩の響、咆哮する声、げにすさまじい。
世は挙げて黒い帳に覆われ、陽はその光を失って、空には異形の群が充ち満ちた。

魔王が百千の大軍を率いて四方から太子をめがけて殺到すると、今まで太子を囲繞いて讚歎の声を放っていた神神も、恐れをなして逃げ走る。
今は太子を助けるものとては、一人もいない。

「はじめは神々がお釈迦様の修行を応援していたのですが、この恐ろしい悪魔の軍勢にはひるんでしまったのでした。」

しかし太子は、「嘗て長い間に修めた十波羅蜜こそ、わが力ある軍勢であり、身をまもる宝刀、堅固なる楯である、この十波羅蜜の善行を揚げて、悪魔の軍を粉砕しよう」と、毫(すこ)しも動じ給うことはない。

「といって敢然と立ち向かわれました。十波羅蜜というのは、六波羅蜜に方便・願・力・智の四つを加えたものです。」

ここで面白いのは、神々という悪魔に対抗する存在があるということだ。ただし、それは悪魔程度ということであり、煩悩相当の意識や欲求(?)ということだ。
波羅蜜がでてきたが、昨日は37道品ともいってたような気がする。上座部と大乘の違いだが、文脈は同じだと思う。

■4.釈尊成道の際の降魔、悪魔の撤退
悪魔が風神を誘って狂風を起こしても、太子の衣は端だに動かず、雨神を駆って豪雨を降らしても、露だに太子を濡らさない。石の雨、剣の雨、火の雨を注いでも、それらは皆、華鬘と化り、香粉と化って、四辺に散らばるのみである。魔王が放つ暗黒も、太子に近づけば日の輝となり、投げられた武器も華の天蓋となる。今はいかなるものも、太子を害のうとは出来ない。
魔王は真先に進んで叫んだ。「出家よ、樹の下に坐って何を求めるか、速かに去れ、汝はその金剛座に値するものでない」。
しかし太子は厳然として「天地に覆われたこの世界に於て、この座に値するものはただ我一人である、
遠き古えからの宿世の善根に飾られたものでなければ、この座を占むべきものでない、地の神よ、速やかに出でて証明せよ」と、大地を指し給うと、忽ち座下の大地を開いて地の神があらわれた。
その轟然たる響に魔王の心は破れ、怖れ戦いて眷属をも顧みず、四方に逃げ失せた。」

「というのであります。しかし、更に」と、まだ決着はつかない。

ここで、おもしろいのは神という存在があって、やはり悪魔相当だということだろう。そして、この対抗は限りないのだろう。また、神は釈尊のなかの煩悩相当の意識であっても、自分で制御できないということだ。六波羅蜜は違うよ、ということなのだろう。釋尊においては、神、悪魔は実体的存続物、六波羅蜜は一般依存存続物であって、情報コンテンツなのだろう。

程経て悪魔は更に顕れ、手をかえ、甘言もて太子を誘おうとする。

痩せ細るおんみの、顔の色の悪さよ。げに死は近し。
おんみには、死せるぞ多く、生けるや少なし。
生きよ、生くるこそ善けれ。生きて、善きことをなせ。
清き行して、火に事うれば功徳多きに、いかなればかく、徒らに励むや。
道行き難く、はた成し難し。

太子は毅然として、悪魔を叱咤し給うた。

悪魔よ、放逸の奴隷よ、いかなれば来たれる。
功徳、我に要なし。
信仰と精進と、智慧をばもちて、道にはげめるわれに、如何なれば、生きよとすすむるや。
流るる河も、熱風に乾くを、勤めつ励む、我が血のいかで、枯れざらん。
血は枯れ、あぶら失せ、肉落ちて、心愈静まる。
正念と智慧と明らかに、禅定いよいよ固し。
われ嘗て、五欲の楽の極みをつくし、今や、その欲に望なし、この清浄の人をみよ。

「それから更に軍勢は襲ってくるのですが、敢然と斥けられました。」

悪魔は戦に利のないのを見て、悄然として悲しんだ。
われ七歳、世尊を逐えど、正念に在(いま)せる、さとりの人の隙を得ず。
柔らかき、肉に似たる石あり、鳥集まりて、甘き味を得んとすれども、その味を得ずして、鳥去る。
我等も、石を啄む鳥の如し。
悪魔は悲しみに敗れて、すごすごと消え失せた。

「とついに悪魔も去ったのでした。かくして降魔が成し遂げられ、悟りを開かれるようになるのです。魔との戦いが成道につながるのであります。」

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