大乘起信論(13)
證發心者、淨心地從り、乃至、菩薩の究竟地までなり。何れの境界を證するや?謂う所は真如なり。轉識に依るを以って說いて境界と為すも、而も此證者、境界有ること無く、唯だ真如智のみなれば名づけて法身と為す。是の菩薩の、一念の頃(あいだ)に於て能く十方の無餘の世界に至りて、諸佛を供養し、轉法輪を請するは、唯だ眾生を開導し利益せんが為のみにして、文字に依らず、或は地を超えて速(すみや)かに正覺を成ずることを示すは、怯弱(こじゃく)なる眾生の為なるを以っての故なり、或は我じゃ無量阿僧祇劫に於て當に佛道を成すべしと說くは、懈慢なる眾生の為なるを以っての故なり。能く是の如きの無數の方便を示すこと思議(しぎ)す不可ず、而も實には菩薩種性(しゅしょう)としては根は等しく、發心は則ち等しく、證する所も亦た等しくして、超過之法の有ること無く、一切の菩薩は皆な三阿僧祇劫を經るを以っての故にて、但だ眾生と世界とは同じからず、見る所と聞く所と根と欲と性とも異なるに隨うが故に、所行を示すことも亦た差別有るなり。
又た是の菩薩の發心の相者、三種の心の微細之相有り。云何が三と為す?一者、真心なり、無分別なるが故なり。二者、方便心なり、自然に遍行して、眾生に利益する故なり。三者、業識心なり、微細に起滅するが故なり。
又た是の菩薩は功德の成滿するとき、色究竟處に於て一切の世間の最高大身を示す。一念相應慧あるを以って無明の頓に盡きしを、一切種智と名づけて、自然にして而も不思議の業有りて、能く十方に現じ眾生を利益するを謂う。
問うて曰く、虛空は無邊なるが故に世界は無邊なり、世界は無邊なるが故に眾生は無邊なり、眾生は無邊なるが故に心行の差別も亦た復た無邊なり、是の如く、境界は分齊(ぶんざい)す不可して、知ること難く解すこと難し、若し無明にして斷ぜば心想も有ること無きに、云何ぞ能く了するを一切種智と名づけん?」
答えて曰く、一切の境界は本來一心にして想念に於いて離れ、眾生は妄に境界を見るを以っての故に、心に分齊有り、妄に想念を起して法性に稱(かな)わざるを以っての故に、決了すること能わざるも、諸佛如來は見と想とに於て離れ、遍ぜざる所無く、心は真實なるが故に、即ち是れ諸法之性なり。自體が顯れて一切の妄法を照し、大智用有り、無量の方便もて、諸の眾生の應に解することを得る所に隨って、皆な能く種種なる法義を開示せば、是の故に一切種智と名づくるを得たり。」