管長日記「若き日の徳山和尚」解釈20241222

昨日、臨済義玄と徳山宣鑑の話題で、若い臨濟に対する老練な徳山といった話だった。今日は若かりし頃の徳山に注目する。熱血漢なのだと思う。臨濟ら他の禅僧もそうだったと思うが、当時の禅の周囲の雰囲気か。若者の野心といったところは変わらないということでよい。

構成:
1.700年代後半の禅の状況
2.徳山宣鑑の若い頃
3.『無門関』第二八則「久響龍潭」
4.『碧巌録』第四則「德山挾複子」

■1.700年代後半の禅の状況

古来禅門では「臨済の喝、徳山の棒」、「道い得るも三十棒、道えざるも亦三十棒」とあり、徳山禅師は実に機鋒の激しい禅匠であったが、始めは学問から修めている。

南嶺老師は、「仏教学の伝統では、仏さまになるには,五十二位の階梯があって、それを三大阿僧祇劫というとてつもなく長い歳月をかけて、何度も何度も生まれ変わり死に変わりを重ねてゆくのだと説かれていたのでした。それが、禅では不立文字教外別伝と言い始め、お経や言葉に依らずに、直に自分の心を見れば仏になると説かれるようになっていたのです。」

「即心即仏」などといって自分の心がそのまま仏であるとも説いていました、というのは当時馬祖、洪州宗の人気、普及の状況だろうが、これはそれまでの仏教学の立場からすればとんでもない教え、という。

それまででは、心を師とせざれ、心とはざわめき動き、常に迷いを生みだす張本人だと説かれていた。確かに禅は、楞伽經、つまり如來藏、唯識的なのだが、六祖慧能は「幡不動、風不動、心動」といってしまって、社会にデビューしてしまっている。
考えてみれば、そこから2代で、「その心こそ仏である」とは「当時の仏教学からみれば、とても大変な新説」かもしれない。

■2.徳山宣鑑の若い頃

老師は『無門関』を引用して説明しているのだが、岩波文庫にはそこまで記載されていない。訳注を調べることになるだろう。後で、『碧巌録』も引用され、そこにも徳山の情報はある。

老師は若い頃の徳山の心境をこのようにいう。
「そこで伝統の仏教学を修めていた徳山禅師も、南方で禅が盛んになっているというのを聞いて、とんでもないことだと思ったのでしょう。徳山禅師は「出家児は千劫に仏威儀を学び、万劫に仏細行を学ぶも成仏することを得ず」といって、千劫万劫濃やかな修行を重ねてもそう簡単に成仏できるものではないのに、禅では「直指人心見性成仏」などというのは、けしからんとばかりに、南方に押しかけて禅を滅却しようとされたのです。」

ちょっと、五燈会元の徳山宣鑑の項を見てみよう。

《五燈會元》卷7:
青原下四世 龍潭信禪師法嗣 鼎州德山宣鑒禪師
簡州周氏子。丱歲出家。依年受具。精究律藏。於性相諸經。貫通旨趣。常講金剛般若。時謂之周金剛。甞謂同學曰。一毛吞海。海性無虧。纖芥投鋒。鋒利不動。學與無學。唯我知焉。後聞南方禪席頗盛。師氣不平。乃曰。出家兒千劫學佛威儀。萬劫學佛細行。不得成佛。南方魔子敢言直指人心。見性成佛。我當摟其窟穴。滅其種類。以報佛恩。
遂擔青龍疏鈔出蜀。至澧陽路上。見一婆子賣餅。因息肩買餅點心。婆指擔曰。這箇是甚麼文字。師曰。青龍䟽鈔。婆曰。講何經。師曰。金剛經。婆曰。我有一問。你若答得。施與點心。若答不得。且別處去。金剛經道。過去心不可得。現在心不可得。未來心不可得。未審上座點那箇心。師無語。遂往龍潭。至法堂曰。久嚮龍潭。及乎到來。潭又不見。龍又不現。潭引身曰。子親到龍潭。師無語。遂棲止焉。一夕侍立次。潭曰。更深何不下去。師珍重便出。却回曰。外面黑。潭點紙燭度與師。師擬接。潭復吹滅。師於此大悟。便禮拜。潭曰。子見箇甚麼。師曰。從今向去。更不疑天下老和尚舌頭也。至來日。龍潭陞座。謂眾曰。可中有箇漢。牙如劒樹。口似血盆。一棒打不回頭。他時向孤峰頂上。立吾道去在。師將疏鈔堆法堂前。舉火炬曰。窮諸玄辯。若一毫置於太虗。竭世樞機。似一滴投於巨壑。遂焚之。於是禮辭。
直抵溈山。挾複子上法堂。從西過東。從東過西。顧視方丈曰。有麼。有麼。山坐次。殊不顧眄。師曰。無。無。便出至門首。乃曰。雖然如此。也不得草草。遂具威儀。再入相見。纔跨門。提起坐具曰。和尚。山擬取拂子。師便喝。拂袖而出。溈山至晚問首座。今日新到在否。座曰。當時背却法堂。著草鞋出去也。山曰。此子已後向孤峰頂上盤結草庵。呵佛罵祖去在。

項の全部は分量が多い。さすが徳山禅師である。若い頃のエピソードは上のところであって、実はこれが今日の話に入っている。

先の老師のことばは、「精究律藏。於性相諸經。貫通旨趣。常講金剛般若。」と学問していたこと、また「後聞南方禪席頗盛。師氣不平。乃曰。出家兒千劫學佛威儀。萬劫學佛細行。不得成佛。南方魔子敢言直指人心。見性成佛。我當摟其窟穴。滅其種類。以報佛恩。」という積極的な(攻撃的な?)態度が書かれている。

■3.『無門関』第二八則「久響龍潭」

その様子、つまり「我當摟其(南方魔子)窟穴、滅其種類」という心境を、『無門関』には「心憤憤、口悱悱(ひひ)」と解説する。
「「憤憤」はむかむかして心が穏やかでない様子です。「悱悱(ひひ)」はイライラして胸が痛む様子、いらだつ様子です。論語に「憤(ふん)せずんば啓せず。悱せずんば発せず」とあります。要するに悲憤慷慨していたのです。」

ここから、「久響龍潭」のテキストの解釈になる。まずテキストを見る。
《無門關》卷1:
久響龍潭龍潭因德山請益抵夜。潭云。夜深子何不下去。山遂珍重揭簾而出。見外面黑却回云。外面黑。潭乃點紙燭度與。山擬接。潭便吹滅。山於此忽然有省。便作禮。潭云。子見箇甚麼道理。山云。某甲從今日去。不疑天下老和尚舌頭。也至明日龍潭陞堂云。可中有箇漢。牙如劍樹。口似血盆。一棒打不回頭。他時異日向孤峯頂上立吾道在。山遂取疏抄。於法堂前將一炬火。提起云窮諸玄辨。若一毫致於太虛。竭世樞機。似一滴投於巨壑。將疏抄便燒。於是禮辭。

無門曰。德山未出關時。心憤憤口悱悱。得得來南方。要滅却教外別傳之旨。及到澧州路上。問婆子買點心。婆云。大德車子內是甚麼文字。山云。金剛經抄疏。婆云。只如經中道。過去心不可得。見在心不可得。未來心不可得。大德要點那箇心。德山被者一問。直得口似匾檐。然雖如是。未肯向婆子句下死却。遂問婆子。近處有甚麼宗師。婆云。五里外有龍潭和尚。及到龍潭納盡敗闕。可謂是前言不應後語。龍潭大似憐兒不覺醜。見他有些子火種。郎忙將惡水。驀頭一澆澆殺。冷地看來一場好笑。頌曰。

聞名不如見面 見面不如聞名
雖然救得鼻孔 爭奈瞎却眼睛

「そこではるばるとわざわざ南方に来て、教外別伝などいう禅を滅ぼしてしまおうと意気込んで来たのです。そこでまず禅宗の盛んな澧州(れいじゆう)地方から征伐してやろうと思ったのでしょう。」
無門の評唱の、「心憤憤口悱悱。得得來南方。要滅却教外別傳之旨。」である。

途中でおなかでも空いたか、点心という簡単な食事、おしのぎをいただこうと思って茶店に入りました。(及到澧州路上。問婆子買點心。)

徳山禅師はこれから禅を滅ぼす為に、意気込んで沢山の経典や注釈書を持って行かれたのでしょう。その大きな荷物を茶店の婆さんがご覧になって、そのお荷物は一体何ですかと問います。書物でも入っているように見えますが、なんの書物でございますかと聞きました。それに対して徳山禅師が、これは金剛経という有り難いお経とその注釈書だと答えました。(婆云。大德車子內是甚麼文字。山云。金剛經抄疏。)

このお婆さんは相当仏教を学び、禅の修行もなさっていたと思われます。金剛経の内容もご存じだったのです。そこで徳山禅師に聞きました。(婆云。只如經中道。過去心不可得。見在心不可得。未來心不可得。大德要點那箇心。)

金剛経の中には、「過去心不可得現在心不可得未来心不可得」と書いています。
過去の心は、それはもう過ぎ去ったことですから捉えようがありません。過去心不可得。
現在の心というのも、これまた捉えようがありません。見在心不可得。
未来の心は、これはまだ来ていませんので捉えようがありません。未來心不可得。
過去の心もとらえようがなく現在の心も捉えようがなく、未来の心もとらえようがない、では、いま「点心」を頼むと言われましたが、いったい何の心を点じようとなさるのですか(大德要點那箇心。)と聞いたのです。
これにはさすがの徳山禅師も、ウンともスンとも言えなくなったのです。德山被者一問。直得口似匾檐。

さて、徳山禅師は、こんな婆さんがここに居るということは、きっとこの近くにすぐれた禅の老師がいるに違いないと思いました。然雖如是。未肯向婆子句下死却。
そこでこの近くに誰ぞすぐれた禅の老師がいらっしゃいますかと聞きました。遂問婆子。近處有甚麼宗師。
すると五里ほど行った先に龍潭禅師がおられるぞと教えてもらって龍潭禅師に参じて悟りを開きました。婆云。五里外有龍潭和尚。

龍潭禅師は、徳山禅師のことを、「この中箇の漢有り、牙、剣樹の如く、口、血盆に似たり。一棒に打てども頭を回らさず。他時異日、孤峰頂上に向って吾が道を立する在らん」
と言われました。
これは、本則のことば。(可中有箇漢。牙如劍樹。口似血盆。一棒打不回頭。他時異日向孤峯頂上立吾道在。)
「この中にすごいのがおるぞ。剣のような鋭い歯を持ち、口は血を載せた盆のようだ、棒で打ったところでふり向きもしない。」
(将来きっと、誰も人も寄りつかないような山のてっぺんにどん坐って、私の禅の教えを大いに挙揚してくれるだろう。)

この公案の問答は、徳山との別れ際に、龍澤が灯籠を渡すのだが、それを吹き消して真っ暗になったところで、徳山が悟る、というものだ。(山遂珍重揭簾而出。見外面黑却回云。外面黑。潭乃點紙燭度與。山擬接。潭便吹滅。山於此忽然有省。便作禮。)

無門は龍澤はお粗末に気付かない、と評するが。(龍潭大似憐兒不覺醜。見他有些子火種。)

■4.『碧巌録』第四則「德山挾複子」

意気軒昂な若き日の徳山禅師が潙山禅師を訪ねたときの問答

「徳山が潙山のところにやって来た。旅装も解かずに法堂をあちこち歩き回り、見回して「無い、無い」と言って出た。

徳山は門のところまで来て言った、「やはり軽率であってはならん」。

そこで威儀を正して再び法堂に入り、(潙山に)お目見えした。
徳山は (作法通り) 坐具をかかげて言った、「和尚」。
潙山は払子を取ろうとした。
すると、徳山は一喝して、袖を払って出た。
徳山は法堂に背を向け、草鞋を履くと行ってしまった。
潙山は晩になって首座に問うた、「先程の新入りはどこにいる」。
首座「あの時法堂に背を向けて、草鞋を履くと行ってしまいました」。
潙山「こいつはいまに孤峰の頂上に草庵を結び、仏祖を叱りとばすようになるぞ」。」
  (末木文美士『現代語訳 碧巌録』岩波書店)

《佛果圜悟禪師碧巖錄》卷1:
【四】舉德山到溈山(擔板漢。野狐精)挾複子於法堂上(不妨令人疑着。納敗缺)從東過西。從西過東(可殺有禪作什麼)顧視云無無。便出(好與三十棒。可殺氣衝天。真師子兒。善師子吼)雪竇著語云。勘破了也(錯。果然。點)
德山至門首却云。也不得草草(放去收來。頭上太高生。末後太低生。知過必改。能有幾人)
便具威儀。再入相見(依前作這去就。已是第二重敗缺。嶮)溈山坐次(冷眼看這老漢。捋虎鬚。也須是這般人始得)
德山提起坐具云。和尚(改頭換面。無風起浪)
溈山擬取拂子(須是那漢始得。運籌帷幄之中。不妨坐斷天下人舌頭)
德山便喝。拂袖而出(野狐精見解。這一喝。也有權。也有實。也有照。也有用。一等是拏雲攫霧者。就中奇特)雪竇著語云。勘破了也(錯。果然。點)
德山背却法堂。著草鞋便行(風光可愛。公案未圓。贏得項上笠。失却脚下鞋。已是喪身失命了也)
溈山至晚問首座。適來新到在什麼處(東邊落節。西邊拔本。眼觀東南。意在西北)
首座云。當時背却法堂。著草鞋出去也(靈龜曳尾。好與三十棒。這般漢腦後合喫多少)
溈山云。此子已後。向孤峯頂上。盤結草庵。呵佛罵祖去在(賊過後張弓。天下衲僧跳不出)雪竇著語云。雪上加霜(錯。果然。點)。

この解説を入れていくと、20分コース、圓悟禅師の評唱や、雪竇禅師の頌とその評唱も入れると、1時間コースと、皆さん、楽しんでみようではないか。

「いかにも意気軒昂な様子がうかがえます。」かくして「道い得るも三十棒、道い得ざるも亦三十棒」といって大いに独自の禅風を挙揚されたのでした。

これもそうだが、それを知っての『無門関』第一三則「徳山托鉢」も考えるべし。

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