管長日記「みめいこんとんに坐る」解釈20241212

坐禅の話。下を上あごに付けて頭を支える、ということだが、これは本当に有効だ。うつむいてしまうことを防ぐようだ。最近このことを今年気付いたことだと管長日記で言っており、試しているのだが、とてもよい。坐禅は姿勢を維持するというのが割と難しい。考えが湧いてきてもスルーするようにしているのだが、そうしているうちに、どうも全体的に意識が散漫になってしまうようだ。呼吸に集中する、というのも、その集中するという意識故に姿勢が維持できないのでは良くないのだろう。
調身調息調心という坐禅の骨子があるのだが、調身からだろう。

構成:

■1.坐禅での発見、舌で上顎を支える
「坐禅は十歳の頃から始めたので、かれこれもう半世紀坐禅していることになります。いろいろと研究しながら、坐っていると、たった手を組み足を組んで坐っているだけなのですが、毎回大きな発見があるものです。今回の臘八摂心もいろいろ進歩発見があったものです。その気づきのひとつに、舌で上顎を支えるということの意味であります。」

舌の話は前にも聞いたような気がするのだが、臘八摂心の間にもいろいろ確認したのだろう。

お釈迦様の苦行の様子(大法輪閣『仏教聖典』)
「その後六年の間、太子は日に一食をとり、また半月一月に一食をとり、足をくみ威儀(いずまい)を正して坐り、雨風電にもめげず、唯黙然として、恐れ戦き給うことはなかった。或る時は歯と歯と噛み合わせ上顎に舌を引き付けて心を制え、恰も力の強い人に押し伏せられたように両脇から汗を流されたが、精進の心は退がず、正しい念は乱れないで、却って元気に満ちてその大きな苦に勇み立たれた。」

■2.『坐禅儀』記載
「左右に傾いたり、前にかがまったり、後に反りすぎたりしてはならぬ、腰と脊(せすじ)と頭と項(くび)とを、それぞれ骨節が互いにささえて、その形を塔のようにせよ。
しかし、また身体をことさらに高くするために、むきに息をしすぎて落ちつかぬようではいけない。
かならず耳は肩に対し、鼻は臍に対して垂直になるようにし、舌は上の腭を挂え、上下の唇と歯を互いに合わせ、目は半眼に開いて居睡りをしないようにすることが大切である。
こうして禅定の境地に入ることができるとき、その効果は最高である。」

《(重雕補註)禪苑清規》卷8:
坐禪儀盡學般若菩薩。先當起大悲心。發弘誓願。精修三昧。誓度眾生。不為一身獨求解脫爾。乃放捨諸像。休息萬事。身心一如。動靜無間。量其飲食不多不少。調其睡眠不節不恣。欲坐禪時。於閑靜處厚敷坐物。寬繫衣帶。令威儀齊整。然後結跏趺坐。先以右足安左䏶上。左足安右䏶上。或半跏趺坐亦可。但以左足壓右足而已。次以右手安左手上。左掌安右掌上。以兩手大拇指面相拄。徐徐舉身前欠。復左右搖振。乃正身端坐。不得左傾右側前躬後仰。令腰脊頭項骨節相拄狀如浮屠。又不得聳身太過。令人氣急不安。要令耳與肩對。鼻與臍對。舌拄上腭唇齒相著。目須微開免致昏睡。若得禪定。其力最勝。古有習定高僧坐常開目。向法雲圓通禪師亦訶人閉目坐禪。以謂黑山鬼窟。蓋有深旨。達者知焉。身相既定。氣息既調。然後寬放臍腹。一切善惡都莫思量。念起即覺。覺之即失。久久忘緣。自成一片。此坐禪之要術也。竊謂坐禪乃安樂法門。而人多致疾者。蓋不善用心故也。若善得此意。則自然四大輕安。精神爽利。正念分明。法味資神。寂然清樂。若已有發明者。可謂如龍得水。似虎犇山。若未有發明者。亦乃因風吹火用力不多。但辨肯心必不相賺。然而道高魔盛。逆順萬端。但能正念。現前一切不能留礙。如楞嚴經.天台止觀.圭峰修證儀具明魔事。預備不虞者不可不知也。若欲出定。徐徐動身安詳而起。不得卒暴。出定之後一切時中常作方便護持定力。如護嬰兒。即定力易成矣。夫禪定一門最為急務。若不安禪靜慮。到這裏總須茫然。所以探珠宜靜浪。動水取應難。定水澄清心珠自現。故圓覺經云。無碍清淨慧。皆依禪定生。法華經云。在於閑處。修攝其心。安住不動。如須彌山。是知超凡越聖必假靜緣。坐脫立亡須憑定力。一生取辨。尚恐𩥙駞。況乃遷延。將何敵業。故古人云。若無定力。甘伏死門。掩目空歸。宛然流浪。幸諸禪友三復斯文。自利利佗同成正覺。

この「不得左傾右側前躬後仰。令腰脊頭項骨節相拄狀如浮屠。又不得聳身太過。令人氣急不安。要令耳與肩對。鼻與臍對。舌拄上腭唇齒相著。目須微開免致昏睡。若得禪定。其力最勝」のところ。ここに「舌は上腭(うわあご)を拄(ささ)え唇(くちびる)と歯を相い著(つ) 」とある。

筑摩書房の『禅の語録〈16〉信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀』から引用とあるが、この4つは四部録という。花園大学のデータベースから取れる。勿論坐禪儀も入っている。

SATなら如巹『緇門警訓』、徳煇『勅修百丈清規』が取れるだろう。

『禅の語録〈16〉信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀』注釈:
「『中阿含経』巻二十の念身経に左記がある、
「念身を修習する比丘は、歯歯相い著け、舌は上顎に逼り、心を以て心を治し、治断滅止す。」
《中阿含經》卷20:
復次,比丘修習念身,比丘者齒齒相著,舌逼上齶,以心治心,治斷滅止。猶二力士捉一羸人,處處[7]旋捉,自在打鍛,如是比丘齒齒相著,舌逼上齶,以心治心,治斷滅止。如是比丘隨其身行,便知上如真。彼若如是在遠離獨住,心無放逸,修行精勤,斷心諸患而得定心,得定心已,則知上如真。是謂比丘修習念身。

禅文化研究所の『新・坐禅のすすめ』より(円福寺僧堂政道徳門老師の『坐禅儀』の講義)
「橫から見たときに、耳、肩、肘を通る線が大地に対して垂直になっている。
同様に、前から見た時に、鼻筋、へそを通る線が身体の中心を通って大地に対して垂直になっている。
舌は上あごの歯のつけね辺りに軽く押し当て
くちびると歯は一文字に結ぶ。 歯はくいしばらないように。」

■3.『内田式 風船エクササイズ』

「『内田式 風船エクササイズ』(日貿出版)という本を出版された内田真弘先生に臘八の摂心の前にお越しいただいて指導してもらったのでした。」
これは驚いた。あらゆる健康法を調査しているようだ。

内田真弘『内田式 風船エクササイズ』日貿出版社 (2023/9/11)(\1,980)
腰痛解消のポイントは「舌圧」と「腹圧」!、と紹介される。

amazonの「著者について」では、
神奈川衛生学園専門学校 東洋医療総合学科 教員 、横浜国際プール はりきゅうマッサージ室 室長、筑波大学 理療科教員養成施設 非常勤講師 、東京衛生学園専門学校 東洋医療総合学科 非常勤講師。心体義塾塾長、 ZAT(ゼロ式姿勢調律法)創始者 、 ZATグランドマスター パフォーマンスコーディネーター。  2001年 ボディービル ミスター神奈川選手権70キロ級優勝、 2003年 セントラルジャパンbody-buildingチャンピオンシップ ライト級2位 。2007年 東日本オープン body-building 70キロ級 5位。  大学時代にスポーツクラブでのマシンインストラクターのアルバイトをきっかけに、トレーニング指導に興味を持ち、その後神奈川衛生学園専門学校に進学。同校に在籍時に、ドイツオリンピック役員でもあり、ヨーロッパのフィジオセラピスト協会の役員も務めた、故ハンス・ハルトック氏に招聘され、神奈川衛生学園専門学校卒業後に、渡独。本場ドイツの理学療法、スポーツセラピーをVPTアカデミーにて学ぶ。  VPTアカデミーでは、日本人でははじめてとなるスポーツフィジオセラピストの認定資格を取得。資格取得後、同アカデミーでPNF、モビライゼーション、解剖学などの講義のアシスタントとして活躍する。  日本に帰国後は、神奈川衛生学園専門学校 東洋医療総合学科の教員として講義を行いながら、横浜国際プールはりきゅうマッサージ室室長として日々多くの患者の治療、オリンピック選手、プロアマ、競技種目問わず多くのアスリートのメンタル、フィジカル指導、ケアにも携わっている。 共著:『DVDでみるアスレチック・マッサージの実際』 南江堂

「舌圧の仕組み」として、「舌圧とは舌を上あごにつける力のことです。一般的には、 食べ物を咀嚼するために必要な力とされていますが、鼻呼吸や頭を支える構造としてもとても重要です。舌骨からつながる舌をしっかり上あごにつけることで、首を支える胸鎖乳突筋や後頭下筋群などを助けることができます。」

「舌に頭を載せる」とは「手のひらを使うことで、普段は見えない舌をイメージしやすくなります。上あごに舌をつけた状態から、軽く上げた指先を舌先に見立てて、少しうなずくように頭を動かします。手のひらに頭を載せるイメージで、舌に頭を載せます。うまく載ると首や肩から無駄な力が抜けます。」

「また風船を使うことで、腹圧をより一層感じることができます。腹圧を感じると、どっしりと坐れるようになります。」
腹圧については、腹に力をいれて腹式呼吸とは違う呼吸について、以前話が会ったと思うが、それとは違うようだ。

■4.円覚寺での臘八摂心、午前二時の坐禅
「そうして今年も午前二時の坐禅から修行僧たちと共に坐ることができました。毎年のことながら、午前二時に坐っているのはいいものです。さすがに早起きの私も、午前二時に坐禅をするのは、臘八のときくらいであります。朝の読経が午前三時から始まりますが、臘八の間のみ円覚寺の修行道場では、その前の二時から坐禅をします。」

「この時には、いつも坂村真民先生の「みめいこんとん」の詩を思うのです。」

 みめいこんとん
わたしがいちにちのうちで
いちばんすきなのは
みめいこんとんの
ひとときである
わたしはそのこんとんのなかに
みをなげこみ
てんちとひとつになって
あくまのこえをきき
かみのこえをきき
あしゅらのこえをきき
しょぶつしょぼさつのこえをきき
じっとすわっている
てんがさけび
ちがうなるのも
このときである
めいかいとゆうかいとの
くべつもなく
おとことおんなとの
ちがいもなく
にんげんとどうぶつとの
さべつもない
すべてはこんとんのなかに
とけあい
かなしみもなく
くるしみもなく
いのちにみち
いのちにあふれている
ああわたしが
いちにちのうちで
いちばんいきがいをかんずるのは
このみめいこんとんの
ひとときである
(「坂村真民全詩集 第二巻」より)

「朝と昼、明と暗、善と悪、是と非、有と無、すべての区別区分のないひとときです。そのこんとんの中に、ただ腰骨がすっと立って、静かに息だけしているのです。」

午前2時を朝昼のバランスとするなら、午後9時もそうなのだが、午前二時の静けさは格別だろう。また、4時、5時になってくると、なんとなく元気になってくる。

■5.宮崎童安
宮崎童安(みやざきどうあん、1888-1963)さんは「この息は神仏そのもののいのちである。この息によってこの身は神仏とひとつに結びついている」と仰せになっています。

ウェブを調べた。
「宮崎童安さんは、野の思想家の一人として、私(森信三)が親しくしてきた詩人的宗教家です。童安さんは武蔵野の一角に住まれたが、いわゆる定職もたず、終生第一義の道に生きた人でしたが、それを支えたのは氏が心から尊敬した聖フランシスや、良寛および桃水等先人の生き方で、当時全国に散在していた少数有縁の同志の喜捨によって、その生活は支えられていたようです。」
「福田さんご夫妻は、お二人とも世にも危篤なご夫妻でありまして、ご主人は生涯未解放部落の学校に勤められ、また奥さんは一生盲教育に従事されたのです。
このお二人は共に野の思想家というか、むしろ「詩人的宗教家」であった故宮崎童安氏の、それぞれ一番弟子同士が結婚されたのです。同時にこのお二人によって、私は初めて「野の思想家」の存在と偉大さを知らされるようになったのです。」

森信三の書籍から知ったのではなかろうか。ただ、「野の思想家」という呼び方や、それにあたる人々もいたようだ。

「なにもかも息ひとつぞとなりにけり この身このまま極楽浄土」
宮崎童安さんの歌のようだ。

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