大乘起信論(9)

問うて曰く、「上には真如は、其の體は平等にして一切の相を離れたりと說くに、云何ぞ復た體に是の如くの種種の功德有りと說くや?」

答えて曰く、「實には此の諸の功德の義有りと雖も、而も差別之相無く、等同一味にして、唯一真如なるのみなればなり。此の義は云何?無分別にして分別の相を離るるを以って、是の故に無二なればなり。復た何れの義を以って差別と說き得るや?業識の生滅相に依りて示すを以ってなり。此れを云何が示すや?一切の法は本より來(このかた)、唯心のみにして實には念に於いて無きも、而も妄心有り、不覺にして念を起こして、諸の境界を見るが故に無明を說くを以って、心性にして起らずんば、即ち是れ大智慧光明の義なるが故あり。若し心にして見を起こすときは、則ち不見之相有るも、心性にして見を離るれば即ち是れ遍照法界の義なるが故なり。若し心に動有るなら、真の識知に非ず、自性有ること無ければ、常にも非ず、樂にも非ず、我にも非ず、淨にも非ず,熱惱衰變(ねつのうすいへん)し則ち自在ならず、乃至、具(つぶさ)に過恒沙(かごうしゃ)等の妄染之義有り。此の義に對するが故に、心性にして動無きとは則ち過恒沙等の諸の淨功德の相の義の示現すること有るも、若し心に起ること有らば、更に前法の可念なるを見る者、則ち少(か)くる所有ればなり。是の如くにして淨法の無量の功德は即ち是れ一心にして、更に所念無し。是の故に滿足せるを名づけて法身如來之藏と為すなり。」

復た次に、真如の用者、謂う所は諸佛如來は本(もと)因地(いんじ)に在りて大慈悲を發(おこ)し、諸の波羅蜜を修め、眾生を攝化(しょうけ)し、大誓願を立て、盡(ことごと)く等眾生界を度脫せんと欲し、亦た劫數をも限らずして未來に於いて盡くすことなり,一切の眾生を取ること己身の如くなるを以っての故に、而も亦た眾生という相を取らず。此れ何れの義を以ってや?謂く、如實に一切の眾生と及び與己身とは真如として平等にして別異無しと知るが故なり。是の如く大方便智有るを以って、無明を除滅して本の法身を見(あら)わし、自然にして而して不思議業の種種之用有りて、即ち真如與と等しく、一切處に遍ずるも、又た亦た用の相の得可きこと有ること無し。何を以っての故に?謂く、諸佛如來は唯だ是れ法身智相之身、第一義諦(だいいちぎたい)たるのみにして、世諦の境界有ること無く、施作(せさ)に於て離れ、但だ眾生が見聞するに隨って益を得るが故に說いて用と為すのみなり。

此の用に二種有り、云何が二と為す?一者、分別事識に依るもの、凡夫と二乘との心の見る所者、名づけて應身と為す、轉識の現ずるを知らずを以っての故に、外從り來たるを見て、色の分齊(ぶんさい)を取り、盡くを知ること能わざるが故なり。

二者、業識に於いて依るもの、諸の菩薩の初發意從り、乃至、菩薩究竟地までの、心の見る所の者を謂い、名づけて報身と為す。身に無量の色有り、色に無量の相有り、相に無量の好有りて、住する所の依果(えか)にも亦た無量にして種種なる莊嚴有り、示現する所に隨って、即ち邊有ること無く、窮盡す可からざるにして、分齊の相を離れ、其所應に隨って常に能く住持して、毀せず失せざればなり。是の如くの功德は皆な諸の波羅蜜等も無漏行の熏と、及び不思議熏之所に成就せらるに因るものにして、無量の樂相を具足するが故に、說いて報身と為すなり。

又た凡夫の為して見る所者、是れ其の麁色のみ、隨って六道に於て各おの見ること同じならざれば、種種なる異類あり、樂相を受くるに非ざるが故に、說いて應身と為す。

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