大乘起信論(3)
又た、心源を覺するを以っての故に究竟覺と名づく。心源を覺せざるが故に究竟覺に非ざればなり。此の義云何?
凡夫人の如きは前念の起惡(きあく)を覺知するが故に、能に後念を止め其をして起らざら令むれば、復た覺と名づくと雖も、即ち是れ不覺なるが故。二乘の觀智と、初發意(しょはっち)の菩薩と等の如きは、念に於いて異を覺し、念に異相無くして、麁分別執著相(そふんべつしゅうじゃくそう)を捨(しゃ)せるを以っての故に、相似覺と名づく。法身の菩薩等の如きは念に於て住を覺し、念に住相無くして、分別麁念相(ふんべつそねん)を離れたるを以っての故に、隨分覺と名づく。菩薩地盡きたる如きは方便を滿足し、一念相應して、心の初起を覺し、心に初相無くして、微細の念を遠離せるを以っての故に、心性を見(あら)わすことを得て、心の即ち常住なれば、究竟覺と名づくればなり。是の故に、修多羅(しゅたら)に「若し眾生有りて能く無念を觀ずる者、則ち佛に向かう智と為す」と說く故なり。又た心の起者、初相の知る可きもの有ること無きに、而も初相を知ると言う者、即ち無念なるを謂うなり。是の故に、一切の眾生を名づけて覺と為さず。本從り來(このかた)、念と念とを相續して、未だ曾(かつ)て念を離れざるを以っての故に、無始の無明ありと說く。若し無念を得るならば者、則ち心相の生住異滅を知る、無念と等しきを以っての故なり。
而も實には始覺(と本覚と)之異有ること無し。四相の俱時(ぐじ)に而して有りて、皆自立すること無く、本來平等にして、同一(本)覺なるを以っての故なり。
復た次に,本覺の染に隨えるを分別すれば、二種の相を生ず、「彼與と本覺とを相(あい)捨離せず。云何が二と為す?一者、智淨相、二者、不思議業相(ふしぎごっそう)なり。
智淨相者、謂く法力の熏習するに依り、如實に修行して方便を滿足するが故に、和合識の相を破し、相續心の相を滅し、法身を顯現して、智が淳淨(じゅんじょう)なるが故なり。此の義云何?一切の心識之相は皆な是れ無明にして,無明之相は覺性を離れざるを以って、壞す可きに非ず、壞さざる可きに非ず。「大海の水の風に因りて波動するとき、水相と風相とは相捨離せざるも、而して水は動性に非ざれば、若し風にして止滅するときは、動相は則ち滅して、濕性(しっしょう)は壞せざるが如く」、
故。
是の如く眾生の自性清淨心も無明の風に因りて動ずるとき、心與と無明とは俱に形相無くして、相捨離せざるも、而して心は動性非ざれば、若し無明にして滅するときは、相續は則ち滅して、智性は壞せざるが故なり。
不思議業相者、智の淨なるに依るを以って、能く一切の勝妙の境界を作すをいう。謂う所は無量の功德之相は常に斷絕すること無く、眾生の根に隨うて自然に相應し、種種に而して見(げん)じて、利益を得しむる故なり。
復た次に,覺の體と相者、四種の大義有り。虛空與と等しく、猶お淨鏡の如し。云何が四と為す?一者、如實空鏡なり。一切の心と境界の相を遠離して、法が現わる可きこと無く、覺照の義が非ざるが故なり。二者、因熏習鏡(いんくんじゅうきょう)にして、如實不空と謂う、一切の世間の境界は悉く中に於いて現れて、出でず入らず、失せず壞せずして、常住なる一心であり、一切の法は即ち真實性なるを以っての故なり。又た一切の染法(ぜんぽう)の染すること能わざる所にして、智體は動ぜず、無漏を具足し、眾生を熏ずるが故なり。三者、法出離鏡(ほうしゅつりきょう)にして、不空の法を謂う。煩惱礙と智礙とを出で、和合の相を離れて、淳と淨と明となるが故なり。四者、緣熏習鏡(えんくんじゅうきょう)なり。謂く法出離に依るが故に、遍く眾生之心を照らして、善根を修せ令め、念に隨って示現するが故なり。