小池陽人法話「幸せの見つけ方」(20240918)の原稿化
文字起こしを、句点でつないで、話続ける感じの文から、適切な長さにして、多少、不要な繰り返しや順序を直して、原稿っぽくした。
3200文字、原稿を見ながら読んで15分弱だろう。
しかし、完全に覚えるのは難しい量だろう。
お客さんに向かって法話する場合は、筋書を覚えておいて、その段ごとに話、いうことをイメージするのだろう。
この法話の内容は、仏教的な概念、そのための理論や引用もない。
書いていて気付いたのは、人同士の対話ベースの物語のような、話の進め方になっているということだ。だから、仏教理論の説明のような構成ではないし、だからかはわからないが、説教っぽくないともいえる。
ナラティブ型の法話なのだろう。そうはいっても、昔話のようなお話ではなく、状況と会話である。だから、落語が近いのかもしれない。
原稿を書くより、小説のように、本当に状況と対話だけで書いた方が、色々な意味で、よいのかもしれない。
【法話】小池陽人「幸せの見つけ方」 時間15分程度
今年(2024年)の年明けの話です。
昨年(2023年)、奈良育英高校の3年生の担任の先生が会いに来てくださいました。私のYoutubeの視聴者さんでして、毎回楽しみにしていると、ご友人何人か訪ねてきてくださったのです。その担任の先生が、陽人さんの話を高校生にも是非して欲しいということでしたので、「勿論行きます」とお返事しました。その後、学年主任の先生、校長先生と掛け合ってくださいまして、私の講演をセッテイングしてくださったんです。
先生は、全校生徒の前での講演を企画したかったようですが、今回は高校3年生の選択の授業の1コマということになりました。この授業はいろいろな外部講師が来て、生徒が選択して授業を受けるものだそうです。高校3年生で、もう三学期という、受験真っ只中の時期で、お坊さんの話を聞いてもらえるか不安に思いながら、学校に行きました。
学校にいって、校門のところで先生が待ち受けて下さってました。まず校長室に行き、挨拶したのですが、そのときクリスチャンの学校だと気が付きました。黒い衣で一体たのですが、校長先生からキリスト教といわれました。生徒全員がクリスチャンではないから大丈夫とも言われ、寛大に迎えて頂きました。
時間になりましたので、教室に行くのかと思っていましたが、通されたのがまさかの和室だったのですね。お茶室だと思うんですけど、私立なのであったのでしょう。そこに生徒さん40人くらいが正座して待っていてくださいました。そして、先生から、「3時間お願いします」といわれて驚きました。いくら長くても、2時間くらいです。話す方はまだいいのですが、聞く方がしんどいでしょう。そこで、そろそろ大学生になる生徒さんなんで、これから受けるであろう90分の授業とし、休憩をとって後半は一人ずつスピーチしてもらおうと思ったんです。これからの人生、人前でお話しする場面って少なからずあると思うので、練習しましょう、ということです。
スピーチについては、以前アナウンサーの方から教わった、スピーチの3要素というのがあるんですね。
1つ目が自分の話であるということです。人から聞いた話は、なかなか伝わりにくいんです。
2つ目は、最近の話であるということです。今日ここに来る途中、といった瞬間に、興味がが湧いてくるようです。
3つ目は、物語になっていることがいいらしいんです。途中でやめられず、最後まで、その物語がどうなるか聞きたくなるようです。
自分の話で、最近の話で、なるべくならストーリー性があるということです。
それで、「テーマを決めましょう」、「休みに考えておいてね」、そして「1分スピーチにしましょう」、「最近あった自分にとってうれしかったこと、何でもいいですよ」と言いました。休み時間中、先生はシャイな子が多くて全然喋れないと心配してましたね。
休み時間が終わって、一人ずつ話していくんですけど、全然大丈夫だったんです。緊張していても、しっかり伝えていました。嬉しかったのは、日常の些細なことにみんな喜びを感じていたことでした。
私が一番印象に残っているのは、女の子の生徒さんでした。妹とお父さんと3人で出かけてたんです。そのとき財布を忘れちゃったそうです。お父さんがちょっと分かれていて、妹と二人で歩いているとき、欲しいものがあって、妹さんにお金をちょっと貸してほしいと相談したんです。妹さんはおもむろにお財布を出して、中に1万円札1枚と千円札1枚が入っていたそうです。その欲しかったものが千円以上のものだった。それで妹さんが言った言葉は「お金貸したくない」、と。「一万円崩したくない」。「どうして」というと、「一万円を崩すとすぐになくなるから、なるべくなら崩したくない」ということでした。
その話を聞いていて面白いと思っていたんです。私は落語が好きで、もう亡くなった古今亭志ん朝さんに、似たような話があるんです。最近新しいお札がでましたけど、志ん朝さんの話のときも新しい一万円札が出たころだったと思います。志ん朝さん、「一万円というのは本当にだらしない。崩したらすぐになくなってしまう」と。「崩さない方法を見つけた」というんです。「人にお金を借りて、借りた人に会わないようにすると、崩さないですむ」ということです。その子と妹さんの話と凄くつながるとおもって、もう笑ってたんです。
妹さんとはそこからけんかになってしまい、「お父さんのところに戻る」と、行ってしまったんです。しばらくしたら、妹さんが戻ってきてくれて、手に何かを持っていた。それがかわいらしいポーチだったと言うんです。「さっきはごめんね」といってポーチを渡してくれた。「どうしたの」というと「お姉ちゃんににあうからプレゼント」って言ったんです。よくよく聞いたら、ポーチは千円以上するものだというんですね。あれだけ崩すのを嫌がっていたのに、私のために買ってきてくれた、ということが最近一番嬉しかったことですと語ったんです。なんだかジーンと、いい話だなと思って聞いてたんです。
その子だけじゃなく、いろんな子が、日常の本当に1つ1つの些細な幸せなことをキャッチする力があるんだと感動したんですね。私、ずっと思ってるんですけど、幸せって何か誰かから与えられるものでもないし、何かこう手に入れるものでもないような気がしているんです。幸せってね、気づくものなんだと思うんです。
実は我々は生きていて、日常、足元に幸せが転がっているはずなんですね。それを見逃してしまうから、不平不満が出てきたり、なんかいいことないな、なんて愚痴っぽくなってしまう。そうじゃなくて、1つ1つの出会い、1つ1つのことに感謝する心があれば、我々は幸せになれると思うんですね。だから皆さん、私もそうですけど、幸せは与えられるものでもないし、掴むものでもない。気づくものなんだっていうことを、改めてこの高校の生徒さんに教えてもらったと思ってます。
先日、公開した動画での対談のことなんですけれど、高橋卓志さんという、私の尊敬する臨済宗のお坊さんなのですが、ステージ4の願なんです。高橋さんが仰ってた。今までなんでもなく生活していてもずっと不調だった。でもそんな不調なときに気が付いたことは、半日だけでも、不調がなく、気分よく過ごせるだけで、「ああ、今日一日幸せだったって思える。それがやっと気付けたんだ」と。まさにそうで、我々は健康でいるときこそ健康のありがたさが分からなくて、病気になって初めて健康のありがたさが身に染みてわかる。本当にそうだなと思うんですけど、できるならば健康の内に、この健康の有難さに気付ける方がいいですよね。だから、やっぱり、一切皆苦、一切皆苦、人生は思い通りにならないというのを基準にして生きていくことによって、思い通りになる1つ1つの事に感謝できるようになる。これが本当に仏道なんだろうと思いました。
最後に、これは、あの横田南嶺猊下から教わったんですが、詩人の安積得也さんの詩をご紹介したいと思います。え、詩のタイトルは「幸せ者、僕」です。読ませていただきます。
幸せ者、僕
この眼があいて
自然が見える
しあわせものと
僕を思う
この耳が澄んで
小鳥がきこえる
しあわせものと
僕を思う
この傷がなおって
このくわがにぎれる
しあわせものと
僕を思う
短い詩ですけど、自分が「しあわせだな」と思う癖がついてくると、なんでもないことに本当に感謝できる。有難いの反対語は当たり前だと聞いたことがありますけど、当たり前になっている1つ1つのことが実はあり難いことだっていう気づきが、幸せへの一番の近道なのではないかと思っております。
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