管長日記「大いに学ぶ」解釈20241124

ストレートな意味で、学ぶということだった。老師のいう「学ぶ」ということばは多義的であるようにおもう。年をとると多義的になる傾向があるとは思う。むりやり「学ぶ」ということばを使っている可能性もあるし、それ以上のことをいうと、他の人とは見解が変わっていることに気付くだけで、逆にそのようにあいまいなことばにしているのだろう。実は、学んでは、、、いやいや。
「年をとると」と書いたが、これは社会的な制度とか、役割、気にすることの変化といったことが背景にあるので、別に劣等感、自尊心とかそんなことを言っているのではない。知識を得て活用する、応用して成果を出す、といったことの目的のところが「大きく」「あいまいに」なって、言葉を選ぶと不適切になるのだろう。ごちゃごちゃと執着してしまうよりはるかによい。
そうはいっても、仏教は覚えることは多く、また言葉が分からなければやっぱり話しにならない。歩歩是道場と、学ぶという意識もなくしていきたいところ。
今日は、楽しみにしている、例の勉強会の話だった。

構成:
1.土地神
2.『碧巌録』97則「金剛経軽賤」
3.大慧禅師『宗門武庫』「廬山李商老 土地神のたたり」
4.「腫を病む」、『太平広記』巻323と『禅門宝訓』にある話
5.大慧禅師のこと

大慧禅師の話が出た。苦労人、というか凄い人生の人だ。宋代の、臨済宗の絶頂期に君臨した禅僧といえるだろう。政治に巻き込まれており、ちゃんと流罪にもされている。人柄についての見解を聞けたのは嬉しい。

■1.土地神
珍しい言葉。
「土地神」:「寺院の境内を守護する神のこと。その神は寺院によって一定している。」(禅学大辞典)

「土地堂」(どじどう):「<つちどう>とも読む。禅宗寺院の境内を守護する土地神(どじじん)および護法神を祀る堂。<鎮守堂><伽藍堂>ともいう。土地堂において土地神のために諷誦するのを土地堂諷経あるいは土地諷経という。古くは、仏殿の両脇に祖師堂とともに付設された。」(『仏教辞典』岩波書店)と、状況が分かる。

「円覚寺の佛殿の中でも、祖師堂と反対側に、土地堂がございます。」

■2.『碧巌録』97則「金剛経軽賤」
「軽賤」は「軽んじる」といったこと。

「「洞山和尚は、一生寺に住んでいたが、土地神が彼の痕跡を探しても見つからず、ある日厨房の前に米や小麦粉を撒いておいた。洞山は心を動かし、「お寺の物を、このように粗末にしてよいものか」と思った。土地神はそれで一見することができ、礼拝したのである。」(是故洞山和尚。一生住院。土地神覓他蹤迹不見。一日廚前抛撒米麫。洞山起心曰。常住物色。何得作踐如此。土地神遂得一見便禮拜。)

これは頌の評唱の、しかも後ろの方にある。
明珠在掌(上通霄漢。下徹黄泉。道什麼。四邊誵訛八面玲瓏)有功者賞(多少分明。隨他去也。忽若無功時作麼生賞)
胡漢不來(内外絶消息。猶較些子)全無技倆(展轉沒交渉。向什麼處摸索。打破漆桶來相見)
伎倆既無(休去歇去。阿誰恁麼道)波旬失途(勘破了也。這外道魔王。尋蹤迹不見)
瞿曇瞿曇(佛眼覰不見。咄)識我也無(咄。勘破了也)。
 復云。勘破了也(一棒一條痕。已在言前)

「胡漢來たらざれば、全く技倆無し」からのところ。「佛眼覰れども見えず」と。
ゆえに、「一念も余念をまじえずに、正念工夫している洞山禅師のお姿は、土地神にも見えなかったのでした」ということになる。

「瞿曇、瞿曇」、とたとえ佛が来ようと、果たして「我識る也無(や)」。

■3.大慧禅師『宗門武庫』「廬山李商老 土地神のたたり」
「小川隆先生の素晴らしいご講義で感動した」と老師。

「廬山の李商老という方がいて、家を建築する為に土を動かして、土地神の祟りを蒙ってしまったのでした。今でも新しい建物を建てようという時には地鎮祭を行います。」

地鎮祭:「土木・建築などで、基礎工事に着手する前、その土地の神を祀って工事の無事を祈願する祭儀」(『広辞苑』)、この土地の神が土地神。

「きちんとお祀りしなかった為なのか、祟りがあったというのです。どんな祟りかというと、それは「家じゅうの者がみな全身がむくむ病となった」というのです。
医者に診てもらっても何の効き目もありません。とうとう決心して、祟りを禳うべく、屋敷を清め、家の者に命じ、みなに精進潔斎して香を焚いて『熾盛光呪(しじょうこうじゅ)』という呪文を唱えさせたというのです。熾盛光呪というのは禅宗ではよく読んでいる消災咒という陀羅尼です。
そうすると、七日も満たぬうちに、夜、牛にまたがった白衣の老人が夢に現れました。老人が現れたと思うと、見る間に地面が陥没し、老人はゆるゆると地中に沈んでいったのでした。明くる日には、家の者は、大人も子供もみなそろって元気になっていたというのです。
誠の心の感応は、物に影が応じるように、音に響きが応じるように速やかなのです。御仏のお力でなければこんなことはありえないという話であります。」

大慧普覺禪師宗門武庫 (No. 1998B 道謙編 )
廬山李商老。因修造犯土。擧家病腫。求醫不效。乃淨掃室宇。骨肉各令齋心。焚香誦熾盛光。呪以禳所忤。未滿七日。夜夢。白衣老人騎牛在其家。忽地陷旋旋沒去。翌日大小皆無恙。志誠所感。速如影響。」
この後、この用に続く。
非佛力能如是乎顒華嚴。圓照本禪師之子。因喫攧有省。作偈曰。
這一交這一交。萬兩黄金也合消。頭上笠腰下包。清風明月杖頭挑。
富鄭公常參問之。一日見上堂左右顧視忽契悟。以頌寄圓照曰。
一見顒師悟入深。因縁傳得老師心。江山千里離云隔。目對靈光與妙音。

ここの話は説話であって、慈照聰禪師の節にある。
「慈照聰禪師。首山之子。咸平中住襄州石門。一日太守以私意笞辱之。曁歸衆僧迎於道左。首座趨前問訊曰。太守無辜屈辱和尚如此。慈照以手指地云。平地起骨堆。隨指湧一堆土。太守聞之。令人削去。復湧如初。後太守全家死於襄州。又僧問。深山巖崖中。還有佛法也無。照云有。進云。如何是深山巖崖中佛法。照云。奇怪石頭形似虎。火燒松樹勢如龍。無盡居士愛其語。而石門録獨不載二事。此皆妙喜親見。無盡居士説」とあって、先の廬山李商老の話となる。

■4.「腫を病む」、『太平広記』巻323と『禅門宝訓』にある話
小川先生が詳細に分析しているという。

「家じゅうの者がみな全身がむくむ病」という訳。
原文は「家を挙げて腫(しゅ)を病む(擧家病腫)」。
家を挙げては家中、「腫を病む」とは。

『太平広記』巻323について、「あるお母さんが亡くなりました。お母さんはなんの病気だったのですかと聞かれて、答えたのが、「腫を病む」でした。遡って生前のお姿が太った様子に見えていたのが、腫を病むことだと書かれているそうです。そこで腫を病むとは、太る様子になることで、むくむことだと分かるのだというのです。なるほど、言葉の意味をこのように前後の文章から考察していくのだと分かりました。」

ウェブでは原文など見つからなかった。そんなこともある。

「しかし、まだこの話だけでは大慧禅師との関わりが全く分かりません。
李商老という方は、湛堂文準禅師(1061ー1115)に参じた老居士であります。
湛堂禅師は、真浄克文禅師のお弟子であり、大慧禅師も若き日に、この湛堂禅師について修行されていたのでした。
李商老は湛堂禅師の門下で、若き日の大慧禅師とも道交を深めていたのでした。」

『禅門宝訓』にある話を紹介してくださいました。

「湛堂禅師のもとで大慧禅師が修行していて、そこに李商老が居士として参禅に来ていたのです。李商老が十日も姿を見せないと大慧禅師は、人を遣わしてお見舞いしていました。この李商老があるときに家中の者が全身むくむ病気になってしまいました。大慧禅師は李商老のところにいって、ご自身で薬を煎じたり、食事の用意をして看病されたのです。それはあたかも子が親に仕えるように、弟が兄に仕えるようでありました。そうして大慧禅師はお寺に帰ってきたのですが、元首座という方に叱られてしまいます。」

これかな。
《禪林寶訓》卷3:「山堂曰。李商老言。妙喜器度凝遠節義過人。好學不倦與老夫相從寶峯。僅四五載。十日不見必遣人致問。老夫舉家病腫。妙喜過舍躬自煎煮。如子弟事父兄禮。既歸。元首座責之。妙喜唯唯受教。識者知其大器。湛堂嘗曰。杲侍者再來人也。山僧惜不及見。湛堂遷化。妙喜蠒足千里。訪無盡居士於渚宮求塔銘。湛堂末後一段光明。妙喜之力也(日涉記)。」

「これは他の資料によると、はじめ一月ほどで帰ると元首座に告げて李商老のところに行ったのでした。それが四十日にもなったので叱ったのです。もともと元首座という方は、大慧禅師のことを目に掛けていたのです。それで、せっかく修行しているのにすさんでしまったと叱ったのでした。」

これだろうか。
《大慧普覺禪師宗門武庫》卷1:「師在寶峯時元首座極見喜。一日請假往謁李商老。云一月日便歸。後四十日方歸。元見遽云。噁野了也。無常迅速。師不覺汗下。」

《禪林寶訓音義》卷1:「○李商老廬山李商老。因修造動土。觸犯土神。致舉家病腫。求醫不効。乃焚香齋戒。誦念熾盛光王神呪。未及七日。夜夢老人。著白衣騎牛。陷地旋沒而去。翌日全家病痊矣。」ともあって、それなりに知られている話かもしれないが。

■5.大慧禅師のこと

「大慧禅師は晩年、湛堂禅師のもとで、この元首座という方が常に修行の道場としての規律をとてもよく守っていたと評しておられます。
大慧禅師は元首座に叱られてもただハイハイと答えて神妙にしていました。湛堂禅師も大慧禅師のことを「再来人」だと評されました。(湛堂嘗曰。杲侍者再來人也。)再来人とは、前世で修行していて、今世においても修行している者のことをいいます。
とても人には親切で情に厚い大慧禅師の一面がよく伝わってくる話であります。」
よく見つけて下さった。そうなのだ、人柄みたいなのは逸話から見えてくるものだが、大慧禅師の伝記、逸話は日本では出版されていないのではなかろうか。先の文献の日本語訳も無いのでは。

「『宗門武庫』だけを読んでいては、李商労が家の修造で、土を勝手に動かしてしまい祟りにあい、それが消災呪を読んで病気がよくなったというだけの話です。
しかし、大慧禅師もそこに深く関わっていることがよく分かりました。
そして大慧禅師のひととなりも伝わってくる話なのです。
なるほどこうして深く禅籍を読み込んでゆくのだと大いに学ばせてもらいました。」
これは、人文系の学問における、研究のひとつの側面を言っているのだろう。
つまり、今回の「学び」とは、研究に近い概念で使っていた、とわかる。

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