大乘起信論(4)
言う所の不覺の義者、實に真如の法の一なるを如らざるが故に、覺心が起こらず、而して其の念有るも、念に自相無ければ本覺を離れざるを謂う。猶お迷人は方(ほう)に依るが故に迷うも、若し方に於いて離るるは則ち迷うこと有ること無きが如く、眾生も亦た爾(しか)り、覺に依るが故に迷うも、若し覺性を離るるは則ち不覺無し,不覺妄想心有るを以っての故に、能く名と義を知りて、為に真覺と說くも、若し不覺之心を離るるならば,則ち真覺の自相を說く可きものが無ければなり。
復た次に、不覺に依るが故に三種の相を生じ、彼與と不覺と相應して離れず。云何が三と為す?一者、無明業相(むみょうごっそう)なり。不覺に依る以っての故に心動く、說いて名づけて業と為す。覺するは則ち動かず。動くは則ち苦有り、果は因を離れざるが故なり。二者、能見相(のうけんそう)なり。動ずるに依るを以っての故に能見なり。動ぜざるときは則ち見無きなり。三者、境界相(きょうがいそう)なり。能見に依るを以っての故に境界は妄に現ず。見を離るるは則ち境界無し。
境界の緣有るを以っての故に、復た六種の相を生ず。云何が六と為す?一者、智相なり。境界に於いて依りて心は起り、愛與と不愛を分別するが故に。二者、相續相(そうぞくそう)なり。智に於いてに依っての故に、其の苦樂の覺心を生ず。念が起って相應して斷ぜざるが故なり。三者、執取相(しゅうしゅそう)なり。相續に於いて依って境界を緣念し、苦樂を住持して、心が著を起すが故なり。四者、計名字相(けいみょうじそう)なり。妄執に於いて依って、假の名言の相を分別するが故なり。五者、起業相(きごっそう)なり。名字に於いて依りて名を尋ね、取著して種種なる業を造る故なり。六者、業繫苦相(ごっけくそう)なり。業に依りて果を受け、自在ならざる以っての故に。當に知るべし、無明は能く一切の染法を生ず、一切の染法は皆な是れ不覺の相を以っての故なり。
復た次に、覺與と不覺とには二種の相有り。云何が二と為す?一者、同相、二者、異相なり。同相者、譬えば種種なる瓦器の皆な同じく微塵の性と相となるが如く、是の如く、無漏と無明との種種なる業幻(ごうげん)も皆な同じく真如の性と相となるなり。是の故に、修多羅中に於いて此の真如の義に依るが故に說く、一切の眾生は本來常住にして涅槃に於て入り、菩提之法は修す可き相に非らず、作す可き相に非らず。畢竟無得(むとく)なり。亦た色相の見わる可き無きも、而して色相を見わすこと有り者、唯だ是れ隨染業幻(ずいぜんごうげん)の所作なるのみ。是れ智に色不空(しきふくう)之性あるに非ず。智相の見わる可きもの無きを以っての故なり。
異相者、種種の瓦器の各各同じからざるが如く、是の如く、無漏と無明との隨染幻の差別と性染幻(しょうぜんげん)の差別となるが故なり。
復た次に、生滅の因緣者、謂う所は眾生であり、心に依りて、意、意識とが轉(おこ)るが故なり。此の義は云何?阿梨耶識に依りて、無明有りと說をを以ってなり。不覺にして而して起り、能く見、能く現じ、能く境界を取り、念を起して相續するが故に說いて意と為す。此の意に復た五種の名有り。云何が五と為す?一者、名づけて業識と為す。謂く無明の力にて不覺心が動ずるが故なり。二者、名づけて轉識と為す。動心に於いて依りて能見相あるが故なり。三者、名づけて現識と為す。謂う所は能く一切の境界を現ずればなり。猶お明鏡に於いて色像を現ずるが如く、現識も亦た爾(しか)り,隨って其の五塵にして對至すれば、即ち現じて前後有ること無く、一切時に任運にして而して起って常に前に在るを以っての故なり。四者、名づけて智識と為す,謂く染淨法を分別するが故なり。五者、名づけて相續識と為す,念が相い應じて不斷なるを以っての故なり。過去の無量世等の善惡之業を住持して、失わざら令むるが故なり。復た能く現在と未來との苦樂等の報を成熟して、差違すること無きが故なり。能く
現在已經(いきょう)之事をして忽然として而して念じ、未來之事をして不覺に妄慮せ令しむればなり。