管長日記「開山さまを想う」解釈20241002
円覚寺の開山は仏光国師、宋国の無學祖元(1226-1286)である。
10月2日は仏光国師のご命日であり、法要が開催される。
構成
1.仏光国師の経歴。禅学大辞典引用
2.法要、佛傳で午後三時から、礼拝作法(管長の役割の記載もある)、今年は四年に一度の巡堂
3.投機の偈、朝比奈宗源老師の解説
法要の儀式について話されており、貴重な話である。書籍などには書かれないことだろう。
また仏光国師の偈といえば、「乾坤無地卓孤笻。喜得人空法亦空。珍重大元三尺劍。電光影裏斬春風。」の臨刃偈、また世辞の偈「來亦不前。去亦不後。百億毛頭師子現。百億毛頭師子吼。」も有名だ。
■投機の偈
一槌撃砕精霊窟、突出那吒鉄面皮。両耳如聾口如唖、等閑觸著火星飛。
一槌に撃砕す 精霊窟
突出す那吒の鉄面皮
両耳 聾の如く 口 唖の如し
等閑に触著すれば 火星飛ぶ
槌の音ではっと気づいた。本当の自分が見えた。耳は聞こえず口も聞けぬが、我が身はうっかり触ると火花が散るほどだ。
朝比奈宗源老師の解説(朝比奈老師『しっかりやれよ』筑摩書房)
「精霊窟というのはお化けの棲家ということです。人間でいったら煩悩の、迷いの世界です。
カーンと鳴らされた板の一槌で、自分の今までの迷いの岩屋はたたきつぶされてしまった。
そこで突出す那吒の鉄面皮、ナダというと何だか超人的な、そうかといって鬼でもないが、力のある、妙な、佛とも神ともつかぬ存在ですな。
ここでは禅宗式にいえば本来の面目です。
私のふだんの説教でいえば、不生不滅の佛心です。
突出したというのは、飛び出した。
迷いの、煩悩の岩屋をたたきつぶして、そこに悟りの、つまり佛心が飛び出た。
その時の様子を、両耳聾の如く口唖の如し、両方の耳は聞こえないようで、口は唖のようだ。
これは全く、坐禅するとこういうとがあるのです。
目も耳もまるでボーとしてしまって、口もあくことの出来ぬような、五体そのものが妙に硬化してしまったような感じはよくあります。
ですからこういう言葉を聞くと、やはり感動します。
等閑に触著すれば火星飛ぶ、なおざりというと、うっかりというほどのこと、そんな木像みたいな、耳も口も馬鹿みたいなようであるが、うっかりさわろうものなら、火花が散るぞ。
それこそ何千ボルトの電流が伝っているようなもので、さわったらパッパッと火花が散るぞと、こういうのです。」
朝比奈宗源老師の語りは、他の禅僧にない感じがある。個性的と思う。フランクな感じなのだが、妙に熱意があるように感じる。
■臨濟14派の内、渡来僧が開山となったのは円覚寺の無學祖元と、建長寺の蘭溪道隆(1213-1278)だろう。蘭渓道隆は無學祖元より少し前に渡来している。wikipediaに次のようにある。
寛元4年(1246年)、33歳のとき、渡宋した泉涌寺の僧月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日した。筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、退耕行勇の開いた常楽寺(神奈川県鎌倉市)の住持となった。
諡号は大覚禪師であり、大覺派となる。今は建長寺派である。弟子は南浦紹明、大応国師である。蘭溪道隆以降の、その後の主だった渡来僧は、まず建長寺の住持となったとある。無學祖元は蘭溪道隆の後継となったとある。禅学大辞典の記載によると、ちゃんと経緯が書かれている。
「弘安二年(一二七九) 冬北条時宗が鎌倉の建長寺の住持に高徳の禅僧を招いたので、祖元は推され、祥興三年(一二八〇)夏五月に太白山を離れ、六月三〇日に太宰府につき、八月に鎌倉に入る。
時宗は迎えて慰労し、蘭渓道隆寂後の建長寺に住せしめた。
五年(一二八二)冬、時宗は円覚寺を建立し、祖元を迎えて開山初祖とした。
こののち建長・円覚を兼管し、鎌倉に禅化を布き、在住八年、日本臨済宗の基礎を確立した。」
蘭渓道隆と無學祖元により、初期の鎌倉の禅が構築された、ということだろう。