管長日記「開板の響き」解釈20241214

12月8日(日)の明け方までの臘八摂心の振り返り。とくにその最終日。そろそろ日常にもどってきた、とのことだ。やはり特殊な一週間なのだろう。新入りの修行僧は大変だったろう。
ただ、日記を聞き終わってみると、やはり老師が大変だったのではないか、ということである。
聴者としては一週間臘八示衆を楽しめた。今年は雰囲気がでていた。

円覚寺の活動を内側から示してくれる話は貴重である。語録でも日常の一風景が入っているものである。そこに問答が入るから、語録になる。考えてみたら語録は老師が書くのではなく、弟子が書くものだ。弟子日記や修行僧日記も時には作ってくれると面白いかもしれない。

構成:
1.今年春からの修行僧の初めての臘八摂心
2.12月8日の日曜日のイベント
3.臘八摂心の開板
4.12月8日の成道会
5.12月8日の布薩

■1.今年春からの修行僧の初めての臘八摂心

「今年の春に修行道場に入った者にとっては、一番の試練でありました。まず一週間橫にならずに坐るというのは、並大抵ではありません。それに午前二時から坐禅するということも、かつてなかったことでしょう。学生の頃には午前二時というと、まだ夜だったと察します。それでも何度も摂心を重ねてきて、こうして十二月の臘八の修行ができるようになるものです。」

新入りの修行僧をねぎらう。摂心は、時々行うのだろう。2日か3日だと思うが、それでも大変だろう。考えてみれば、1週間徹夜(少しは寝るとは思うが)というのは凄いものだ。学生のころは、そんなこともできるかもしれない。心構えや意識を作るところから接心なのだろう。

■2.12月8日の日曜日のイベント
「今年は、臘八が終わる八日が、日曜説教にあたりました。何年かに一度こういう時があります。」
まあ、7年に1回程度。

「七日の夜中修行僧達は坐り抜きます。八日へと日付が変わる頃を坐るのです。そうして八日の未明に、「検単」といって、老師が禅堂に入って、修行僧達の坐禅の様子を見てまわります。私なども修行時代にもっとも緊張した時でありました。今は、自分が老師の役目になっています。こちらも緊張するものです。修行僧達は懸命に坐っています。なかには意識が朦朧(もうろう)としそうな者がいることもあります。体がゆがんでいることもあります。それでも必死にまっすぐに坐ろうとしている姿は尊いものであります。」

「そのあと最後に独参という禅問答があって、臘八は八日の未明に終わります。」
この、独参というシステムはとても良いと思う。負担、緊張、苦痛以外の何ものでもないかもしれないが、これが無いと持たないような気がする。はやり公案のテーマが欲しい。

■3.臘八摂心の開板
「最後に開版がなるのです。いつもですと、朝と夕方と、夜の9時に開板を打ちます。開板というのは、太い板を木槌で打つのです。独特の打ち方があってよく境内に響きます。力を込めて打ちますので、なんともいえない響きがするのです。その毎日打っている開板ですが、臘八の摂心は七日を一日と見なしますので、一日の朝の開板を打った後は、開板を打たないのです。八日の未明の開板を打つまでが一日だというのです。いつの頃から、こういう修行になったのか分かりませんが、年に一度のことですから、続けています。毎日毎日打っていた開板を一週間打たずにいて、それが八日の未明に、臘八の終わりを告げる為に打つので、その開板の響きはなんともいえないものなのです。私はいつも隠寮の仏間で一人読経しながら、その開板を聞いているのです。未明に鳴り響く開板の音を聞いていると、いつも修行していてよかったと思うのです。」

「禅堂では開板のあと摂心の終わりのお経をあげます。般若心経をあげて、ご本尊さまに御回向し、大悲呪というお経をあげて、この臘八の摂心にあたってご供養くださった方々に感謝を表します。そこでようやく一週間ぶりに布団をしくことができるのです。普段布団を敷いて寝るなどということはあたりまえで、感謝することもないのですが、一週間も布団を敷かないでいると、布団を敷いて橫になるだけで幸せに感じるものです。」

年毎のイベントというものを大切にしているのだろう。というか禅や仏教の世界ではそうなのだろう。いや、それが本来の生活というものなのか。

■4.12月8日の日曜説教

「そこで例年ですと八日の成道会に出るだけであとはお休みできるのですが、今年はそうはいきません。特に私は午前9時から日曜説教を務めないといけません。私はほんの二時間ほど仮眠をとって日曜説教に臨みました。今回修行僧たちには休ませておきました。十二月の日曜説教はどうしたことか、とても大勢の皆さんが集まってくれていました。方丈の中も廊下も、小書院までもいっぱいであります。寒い中を成道会の法話にこんなに集まってくださって、感激でありました。今回は、成道会の日にあたりましたので、法話の内容はお釈迦様の難行苦行の話をしました。」

ライブで見た。久しぶりのライブであり、コロナも完全に開けて、人が集まるようになったと思ったのだが、特に盛況だったようだ。

■4.12月8日の成道会

「引き続き佛殿に移動して成道会を務めました。こちらも佛殿は暖房もなにもないのでとても寒いのですが、大勢の方がお参りくださっていました。その様子を拝見して感無量でした。思えばこういう行事は朝六時に行っていたのでした。誰もお参りの人のいない中を行っていました。これはこれで奥ゆかしいものです。円覚寺は修行の寺ですので、一般の方にお参りいただくということはなかったのです。私が管長に就任して、この行事もなんとか皆さんにもお参りできるようにすることができるようにしようと苦心したのでした。いろいろと調整して、どうにか午前十時に行うようにしたのでした。一般の皆さまもこうした伝統の行事にふれると何か感じてもらえるのではないかと思ったのでした。一時間も続く行事ですが、参列してくださった方からは、「感動しました」というお声をいただきました。やはり今の時代は、多くの皆様が支えてくださってこそお寺も維持できていますので、こうして皆さまに開放したことは良かったと思っています。」

いやいや、それは一般の側が良かったと思うことでございます。
思えば、円覚寺の健全さ、円覚寺を話題にすることの抵抗感のなさはこのようなところをもとにしている可能性が大きい。

■5.12月8日の布薩
「そうして午後からは少しお休みできるかと思いきや、今年から始めた布薩であります。一時間半ほど皆さんと礼拝を重ねながら布薩を行いました。こちらも毎回満席で、何度も通ってくださる方が多くて有り難いことです。この布薩も毎回のことですが、礼拝を丁寧に繰り返すと自ずと身心が調うのです。疲れも抜けるという感じであります。中には毎日五体投地の礼拝を続けるようにして、体が楽になりましたと言ってくださる方もいました。有り難いことです。良い習慣にしてもらうと何よりであります。」

確かに、トレーニング的要素が大きい。しかし、礼拝なのだった。

「礼拝の意味を問われて、お釈迦様に最高の敬意を表すのですと答えました。尊敬と感謝を表すのだと思っています。合掌するだけも十分ですし、単に頭を下げるだけでも良いのですが、両膝、両手、額を地面につける五体当地は最大の敬意を表します。敬うものを持つ暮らしは尊いものです。感謝の暮らしは幸せであります。その敬う気持ちと感謝を全身で表すのが礼拝です。かくして臘八を終えても一日はたらかせてもらいました。有り難いことであります。」

老師は鉄人だろう。

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