管長日記「心、墻壁のごとく」解釈20241205

墻壁(しょうへき)とは垣根・壁、囲い、へだてのこと。
白隠禅師の臘八示衆第四夜の講話になる。一週間の折り返しに来た。

構成:
■1.臘八示衆第四夜、全文訓読
■2.六妙門
■3.十六特勝
■4.達磨大師の偈
■5.内心無喘者、不依根本也から努力乎努力乎まで

非常に丁寧だと思う。原文自体が、そもそも専門的ともいえるが、メッセージも熱い。
山本玄峰老師の提唱は、歴史的人物の引用が多く、話が壮大に飛び散っていたので、引用できなかったのだろう。それはそれで、熱いのだった。

■1.臘八示衆第四夜、全文訓読
まず、テキストを示す。
東嶺圓慈『五家參祥要路門』
第四夜示衆曰。數息觀有六妙門。所謂數隨・止・觀・還・淨也。數息入三昧。
是謂數。數息漸熟。唯任出入息入三昧。是謂隨。十六特勝等。以要言之。
歸數隨二字。故初祖大師曰。外息諸縁。内心無喘。心如牆壁。可以入道。
内心無喘者。不依根本也。心如牆壁者。直向進前也。此偈甚深。
汝等請試取本參話頭如牆壁直進去。使令以土撃大地有失。見性決定無不徹。
努力乎努力乎

「第四夜示衆に曰く、數息觀に六妙門あり。所謂數、隨、止、觀、還、浄なり。息を數えて三昧に入る。是を敷と謂う。息を數えて漸く熟すれば唯 出入の息に任せて三昧に入る。是を随と謂う。十六特勝等、要を以て之を云えば数随の二字に帰す。故に初祖大師曰く、外、諸線を息め、内心喘ぐこと無く、心牆壁の如くにして以て道に入るべしと。内心喘ぐこと無しとは根本に依らざるなり。心牆壁の如くとは直向前進する也。此の偈甚深なり。汝等請う。試に本參の話頭を取て牆壁の如く直に進み去れ。たとえ土を以て大地を撃ちて失する事あるとも、見性は決定して徹せざる事なけん。努力せよ。努力せよ。」

まず、全文の訓読が読み上げられた。一気に聞いて、迫力を感じる文章である。そもそも原文自体が、臘八四日目真っ最中の修行僧を前にして語った内容なのだから、迫力あるだろう。

以下老師は、解説しながらメッセージを込める。

■2.六妙門
「六妙門というのは、天台大師の説かれたものです。ここにある通り、「数、随、止、観、還、浄」の六つであります。「数」は、息を数えることです。今でもわれわれの修行道場でも行っている数息観です。」

数息観:出入の息を数える観法。出入の息を数えることによって、心の散乱を収め、心を静め統一する方法で、五停心観の一つ。音写では<阿那波那(あなはな)>または<安般(あんばん)>という。ヨーガの行法としてインドで古くから行われていたのが仏教にも取り入れられたもの。(岩波書店『仏教辞典』)

『佛說大安般守意經』というのがある。上下の2巻で、長いものでもない。

五停心観:
一、不浄観、肉体や外界の不浄なありさまを観じ、貪りの心を止めることです。
二、慈悲観、一切衆生を観じて慈悲の心を生じ、怒りの心を止めることです。
三、因縁観、諸事象が因縁によって生ずるという道理を観じ、無知の心を止めることです。
四、界分別観、五蘊・十八界などを観じ、物に実体があるという見解を止めることです。
五、数息観、呼吸を数えて、乱れた心を止めることです。

五停心観は、論疏類に出てくる、整理された言葉。
《四教義》卷4:「一明初賢五停心觀者。一阿那般那觀。二不淨觀。三慈心觀。四因緣觀。五界方便觀。此五通言停心者。停以停止為義。」というのもある。阿那般那觀は安般観であり、即ち数息観である。

「次の「随」は、数を数えるのをやめて、ただありのままの呼吸を見つめることです。
「止」は、心を一点に集中することです。鼻の先や、へその下などの一点に心を集中するのです。
「観」は、心の目を内面に向けて、心の動きを観察します。
「還」は、心の内面を観察する意識はどこから来たのかを見つめます。
「浄」は、一切の方法を手放し、一切諸法の本質は清浄であることを見極めることです。」

■3.十六特勝
「白隠禅師は「十六特勝等、要を以て之を云えば数随の二字に帰す。(十六特勝等。以要言之。歸數隨二字。)」と説かれています。」

「十六特勝とは、呼吸を数えて心の散乱を除く精神統一法である数息観を、多種類に細分拡充したもので、十六種類の特に勝れた修行法を言います。
すべてをあげることは省略しますが、たとえば、「念息短」といって、短い呼吸に心を集中すること。
「念息長」とは、呼吸も長くなるのを観察することです。
「念息遍身」は、気息が身体に遍満するのを観察することです。
「除身行」は、心が安静になって粗雑な息が滅することです。
このように細かく十六にも分けて観察するのですが、要点をいえば、数息と随息の二つに帰するというのです。」

『六妙法門』という禅籍があって、これに一通り書いてあるようだが、いろいろ調べてみないとならないだろう。いいヒントを得た。

《六妙法門》卷1:「二者「隨」為妙門者,行者因隨息故,即能出生十六特勝,所謂:一、知息入,二、知息出,三、知息長短,四、知息遍身,五、除諸身行,六、心[A1]受喜,七、心受樂,八、受諸心行,九、心作喜,十、心作攝,十一、心作解脫,十二、觀無常,十三、觀出散,十四、觀離欲,十五、觀滅,十六、觀棄捨。」

■4.達磨大師の偈
そのあと、「故に初祖大師曰く、外、諸線を息め、内心喘ぐこと無く、心牆壁の如くにして以て道に入るべしと。内心喘ぐこと無しとは根本に依らざるなり。心牆壁の如くとは直向前進する也。此の偈甚深なり。(故初祖大師曰。外息諸縁。内心無喘。心如牆壁。可以入道。内心無喘者。不依根本也。心如牆壁者。直向進前也。此偈甚深。)」という達磨大師の偈が紹介されています。

老師が偈の解釈を示してくれた。
「この偈については以前にも考察したことがあります。外、諸縁を息むというのは、五欲を離れることではないかと察します。内心喘ぐこと無しは、五蓋を除くことだと受け止めてみます。」

五欲:五つの欲望。五根(五つの感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身)が、その対象となる<五境>(色・声・香・味・触)に執着して起こす五種の欲望で、色欲・声欲・香欲・味欲・触欲をいう(岩波書店『仏教辞典』)

「喘ぐというのが分りにくいところです。」

喘:はあはあと短い息づかいをすること、短い息づかい、「喘息」など(『漢和辞典』)

山本玄峰老師『無門関提唱』(p.58)「魚を取ってきて鉢や桶に入れて飼っておくと、水が温もってきたりすれば、口をあけて、上へ出てきて空気を吸う。そうしよるうちには、水を替えてやっても死んでしまうようになる。これを喘ぐという。」

五蓋:五種類の心をおおう煩悩のことで、<蓋>は、おおうもの、障害の意。
一、貪欲(欲貪とも)、
二、瞋恚(怒り)、
三、惛眠(こんめん)(身心が重苦しい状態の惛沈(こんじん)と心の眠気や萎縮をさす睡眠(すいめん)、
四、掉悔(じょうけ)(心のざわつきの掉挙(じょうこ)と心を悩ます後悔、
五、疑(疑いやためらい)、の五種の障害をいう。」

「外からの刺激を離れても内心から湧いてくる煩悩があるものです。欲望や怒りもそうなのです。惛沈睡眠といって、心が沈んで眠気が襲ってきて怠惰になってしまうことがあります。逆に心がそわそわして落ち着かなくなってしまったり、過去のことを悔やんだりしてしまいます。それに師匠や、仏さま、或いは自分自身への疑いが湧いてきたりします。こういう五蓋にさいなまされることが「喘ぐ」ことではないかとみています。」

丁寧だ!

■5.内心無喘者、不依根本也から努力乎努力乎まで
「そこで白隠禅師は「内心喘ぐこと無しとは根本に依らざるなり。(内心無喘者。不依根本也。)」と示されています。」
山本玄峰『無門関提唱』(p.58)
「これは『根本に依らざるなり』で心が喘ぐからとりとめがない。何じゃらじゃらあっち行って聞いてみたり、こっち行って聞いてみたり、自分と自分に頭抱えてみたりして心にとりとめがない。根本、自己の本心がどこに飛んでおるやら、自分がわからない」

「心牆壁の如くとは直向前進する也。此の偈甚深なり。汝等請う。試に本參の話頭を取て牆壁の如く直に進み去れ。たとえ土を以て大地を撃ちて失する事あるとも、見性は決定して徹せざる事なけん。努力せよ。努力せよ。(心如牆壁者。直向進前也。此偈甚深。
汝等請、試取本參話頭、如牆壁直進去。使令以土撃大地有失。見性決定無不徹。努力乎努力乎)」

「白隠禅師は力強く示してくださっています。実に真っ向から突き進むばかりであります。」
激励なのだが、宣言かもしれない。

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