管長日記「相手の視線」解釈20241029

「先日は甲野陽紀先生にお越しいただいて、~」で始まるので、健康法、体術の話かと思ったら、相手への対し方の話であった。学びや自己の反省を導く話とする、老師らしい話である。今日の話は、それに慈悲、つまり菩薩的な要素が入るものである。

構成:
1.甲野陽紀先生の講座、竹の棒による相手との「間」、鏡
2.臨済録の麻谷と臨済の話(上堂)
3.坪崎美佐緒さんや清水喜子さん(「菩薩に会った、という話」)
4.山田無文老師の『臨濟録』より

起承転結のメリハリがある、構成である。
山田無文老師の『臨濟録』は、かなりわかりやすい評唱・解釈などが書かれており、使いやすいのではなかろうか。感覚的・感情的にもフラットな、「中庸」な感じである。

上3.は小さいので、2.に含めてもよいが、日記を聞いているならば、ここで一つ文の話、意味が入るだろう。
今日の日記の結論「視線が変わると世界も変わるものです。そして相手の視線になって見ることが相手を理解する一歩でもあります。慈悲とは相手の理解でもあります。」には、この項目3.が有効である。

■1.甲野陽紀先生の講座、竹の棒による相手との「間」、鏡
4つの術

「たとえば、相手と竹の棒を持って、相手を押そうとします。こちらが、相手を押そうと思って押しても相手に抵抗されて、なかなか押せるものではありません。こちらが自分の腕を伸ばそうと思って押しても相手はなかなか動きません。ところが、間にもっている竹に注意を向けて、その竹を向こうに動かすようにすると、なんといとも簡単に相手を押せるのであります。
実際にやってみるとその通りになるのです。相手を押そうと思って押すのは、相手に注意がいきます。自分の腕を伸ばそうというのは、自分に注意がむきます。竹を動かそうというのは自分と相手との間にある「間」に注意を向けているのです。それで大きく変わるのです。」

「それから鏡を使うワークを行いました。お互いに片手を握り合って相手を引こうとします。相手は引かれないように頑張ります。なかなか引けないものです。ところが、間に鏡を置いて、その鏡を見ながら引くといとも簡単に引くことができるのです。その鏡には、自分と相手とが映っていないとうまくゆかないのです。
なんとも不思議としか言いようがありません。相手しか映っていないと、引くことができなくなるのです。」

★それから他者の視点を学びました。
 私たちが甲野先生の講義を聴いている時には、黒板と甲野先生が眼に入っています。甲野先生の視線には、黒板は映っていません。畳に坐っている私たちが映っているだけです。

ここに、その講義の場の話をいれているのだが、これが実は面白い。

「イスに坐った人を起たせるワークを二人で行いました。抱えて持ち上げようとすると、出来なくはないのですが、かなり重いものです。ところが、相手の視線をあげるようにしてみると、軽く立ち上げることができるのです。なんとも不思議なものでした。」

「寝ている人を起こすのも同じでした。相手の肩に片手を回して起こそうとします。これもかなり重いものです。ところが相手の視線、景色を動かそうとするのです。仰向けに寝ていると天井が見えています。起きてくると目の前になるふすまが見えてきます。
その景色を思って抱えると、いとも簡単に起こせるのであります。この相手の視線になってみるというのが不思議でありました。またこれは何かとても大事なことだと感じました。」

4つの例は、全部同じではない、「間」への目線、「相手の目線」への目線である。

■2.臨済録の麻谷と臨済の話(上堂)

「ある日、師は河北府へ行った。そこで知事の王常侍が説法を請うた。
師が演壇に登ると、麻谷が進み出て問うた、「千手千眼の観音菩薩の眼は、一体どれが正面の眼ですか。」
師「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが正面の眼か、さあ、すぐ言ってみよ。」
すると麻谷は師を演壇から引きずり下ろし、麻谷が代わって坐った。
師はその前に進み出て、「ご機嫌よろしゅう」と挨拶した。
麻谷はもたついた。師は麻谷を演壇から引きずり下ろし、自分が代わって坐った。すると麻谷はさっと出て行った。そこで師はさっと座を下りた。」(入矢『臨済録』岩波文庫)

これは上堂二である。
《鎮州臨濟慧照禪師語錄》卷1:「師[5]因一日到[6]河府,府主王常侍請師升座。時麻谷出問:「大悲千手眼,那箇是正眼?」師云:「大悲千手眼,那箇是正眼?速道速道。」麻谷拽師下座,麻谷却坐,師近前,云:「不審。」麻谷擬議,師亦拽麻谷下座,師却坐,麻谷便出去,師便下座。」

「教えを説く側と受ける側とがお互いに入れ替わるというのです。これも視線が変わるのであります。教えを説く側の視線が分かってくると何か変化が起きてくるものです。また教えを聞く側の視線が分かってくるとこれも変化があるでしょう。こういうことを学ぶのは、結局自分と他者との関わりを学ぶのであります。」

「以前に坪崎美佐緒さんや清水喜子さんに、相手を理解すると相手が変わるということを学びましたが、相手の視線になって見てみることに通じます。
聞く方も話す側の視点になってみる、話す方も聞く側の視点になってみる、どちらも大事であります」

■3.坪崎美佐緒さんや清水喜子さん(「菩薩に会った、という話」)

この話は日記を聞いている人ならば、ピンとくると思う。相手の状況を受け取るときに、自分が「空」といった状態になるようなことだった。相手の強い感情、妄想を打ち消すような働きだが、基本的には、ただ聞く、といったような感じだったと思う。じつはこれができない。

■4.山田無文老師の『臨濟録』より

山田無文老師は、『臨済録』の中で
「社会も世界もそうだ。いつでも相手の立場になってやれる境界がないというと、円滑にはいかん。自分の立場ばかり固執しておるようでは、世の中、円満にはいかん。いつでも相手の立場に代わってやれる。社長はいつでも社員の立場になれる。社員はいつでも社長の立場になれる。主人はいつでも奥さんの立場になれる。奥さんはいつでも主人の立場がよう分かる。そうお互いが理解できれば、社会生活は円満に行くのである。
天龍寺の説教師がよう言うておった。説教に行ったら、婆さんが前におって、一生懸命居眠りしよるから、「婆さん、婆さん、わしが一生懸命しゃべっておるのに、おまえさん居眠りばかりしておるが、話というものはそう生易しいものではないぞ。一ぺん話す身になってみなされ」こう言うたら、婆さんが、「説教師さん、そう言いなさるけど、一ぺん下に降りて聞いて見なはれ。あんたの話なぞまともに聞いておれますかいな」と言いよったということじゃ。
お互い、いつでも相手の立場になれる自由というものを一つつかんでおかんといかん。」

これは書籍のp.18の最後の行からの引用。
法話でも間が重要ということである。
「こちらの身になってみろと相手に言うのは、自分の立場を強調しているだけで、ちっとも相手の視線になっていないのです」という註を入れる。

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