管長日記「謙遜と自負」解釈20241017

禅文化研究所六十周年式典の芳沢勝弘師記念講演「白隠禅師に学ぶ」の内容。一昨日(10/15)の日記(「禅文化研究所六十周年」)では、芳沢先生の禅文化研究所での想い出について切り出していたが、今日は白隠禅師についての話。昨日は西芳寺の話だったので、なぜ1日あいたのか?また、一昨日は会が無事に開催できたことを感謝する調子だったのだが、今日はなかなか本格的に講演の内容に言及している。

老師は講演なのだが「講義」といって、知識、見識といったことの解説のあったことをいう。
達磨の画を通して、禅的な謙遜、また自負といったことの表現に関して、「乎哉」の表現が詳細に検討される。

構成
1.記念講演「白隠禅師に学ぶ」
2.白隠禅師三十五歳の達磨大師の絵と讃について、四十歳代の達磨大師の画、名前「鵠林野衲乎哉拝圖焉」、35歳の画の「「細工絵師乎哉」
4.「乎哉」について
5.用例、『論語』、『肇論』、『禅語辞典』、『宗門武庫』
6.白隠禅師の「細工絵師乎哉」解釈
 「禅僧の本分ではないところの(いらざる「乎」や「哉」という助辞のような) 画筆を弄して描いております」と謙遜しているのだが、同時に一方では、「この絵もまた、どうして〈道〉に遠いことがあろう、ここに真理の端的を描き表わしておるのだ、〈道遠からんや、事に触れて真なり〉 ですぞ」という自負を表している。」

たかだかサインの書き方のことなのだが、かなりの背景知識がないと、なかなかそのように書くことの解釈も難しい、ということだろう。また解釈は後付けなのだが、白隠禅師としてはそのような「感覚」であって、それでサインしているだけだ。そうなると、本人の年齢、経験や周囲の状況も反映されるはず。禪画では、そのようなところが絵とか讃に入るのだから、語録などの解釈とは違った検討も必要なのだろう。このあたり、芳沢先生の話らしいのではなかろうか。

■4.「乎哉」について
その前に、
「衲」:名詞で「ころも。僧侶の衣服」、「僧侶。また、その自称」
「細工」:「手先を働かせて細かい物を作ること。また、そのもの。その職人」、「細かな点についてのくふう。特に、小さな点を変えるなどして、人目をあざむこうとする企み。」、「(名詞の上に付けて)本格的でない、素人臭い、の意」『広辞苑』
『日葡辞書』には「手の器用な職人」という意味もある。
よって「本格的でない、素人臭い」という意味と、「技能が達者な絵師」という両義を持っている。

・問題の「乎哉」
「乎」は「か」と読み、「~であろうか」と訳します。文末・句末におかれて疑問の意を示します。
また「や」と読み、「どうして~であろうか」と反語の意を示します。
「か」と読み、「~だろう」と訳して推測の意を示します。
それから「や」と読み、「~よ」と訳し呼びかけに用いたりもします。

「哉」もいろいろあります。
「か」と読み、「~か」と訳して疑問の意を示します。
「や」と読み、「どうして~であろうか」と訳し反語の意を示します。
「かな」と読んで、「~であるなあ」と訳します。これは感嘆の意を表します。

「乎哉」で「感嘆の気持ちをあらわすことば」として使われます。疑問、反問の気持ちをあらわすことばとしても使われます。

このような確認は重要である。絶対にこれまでに確認したことはあるのだが、うろ覚えになっているはずだ。

■5.用例、『論語』、『肇論』、『禅語辞典』、『宗門武庫』

『論語』述而第七29
子曰、仁遠乎哉。我欲仁、斯仁至矣。
「子の曰わく、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る」
「仁は遠いものだろうか。自分から仁を求めれば、仁はすぐやってくるよ」金谷治『論語』岩波文庫

僧肇『肇論』、「不真空論」末尾
道遠乎哉。触事而真。
「道遠からんや、事に触れて真なり」という言葉です。道はどうして遠いことがあろうか、そんなことはないという反語です。一切すべて真理のあらわれなのだというのです。

《肇論》卷1:
故經云:「甚奇,世尊!不動真際為諸法立處。」
非離真而立處,立處即真也。
然則道遠乎哉?觸事而真!
聖遠乎哉?體之即神!

・「之乎者也」の四助辞、それ自体は何の意味も持たない「無用の言句」と禅の語録で用いられる
「四字とも文語の助字。それをもてあそぶのは知識人の得意とするところ。空論をもてあそび、学識をてらうこと。「なるらんけるかな」のひけらかし」入矢義高『禅語辞典』

・小川先生の『宗門武庫』の講義より
湛堂文準禅師の洗鉢頌
之乎者也。衲僧鼻孔。大頭向下。若也不會。問取東村王大姐。
「之乎者也 衲僧の鼻孔 大頭下に向く 若也し会せずんば東村の王大姐(だいしゃ)に問取せよ」
黄龍死心禅師は湛堂文準禅師に出会ったことはないけれども、この偈を見てその力量を見抜いて、雲厳院の後任に推挙したという話でした。

《大慧普覺禪師宗門武庫》卷1:
湛堂準和尚。興元府人。真淨之的嗣。分寧雲巖虛席。郡牧命黃龍死心禪師。舉所知者。以補其處。死心曰。準山主住得。某不識他。秖見有洗鉢頌甚好。郡牧曰。可得聞乎。死心舉云。之乎者也。衲僧鼻孔。大頭向下。若也不會。問取東村王大姐。

その時に小川先生は、この偈を、「『なりけりあらんや』も なんのその。わが鼻は このとおり ちゃんと下向きについている。そこのところが解らなければ そこらのおばちゃんにきくがよい」と分かりやすく訳してくださったのでした。

「之乎者也」は、「古典に常用される文語の助字。そこから、現実の役に立たない、空疎で迂遠な読書人の学問の喩え。記誦詞章の勉学を揶揄する語。」というのでした。

以上の検討から、禅僧の本分ではないところの(いらざる「乎」や「哉」という助辞のような) 画筆を弄して描いております」と謙遜し、かつ「この絵もまた、どうして〈道〉に遠いことがあろう、ここに真理の端的を描き表わしておるのだ、〈道遠からんや、事に触れて真なり〉 ですぞ」と自負する、という結論を得ている。
このような論であった。

ラジオの聞き流し感覚で理解するのは難しかろう。ラジオ講座とでも思って、調べると面白い。

■小川先生の講義のこと
2024.05.13【報告】第30回東アジア仏典講読会 柳 幹康、というブログがあった。

2024年2月3日(土)14時より、第30回東アジア仏典講読会をハイブリッド形式にて開催した。今回は小川隆氏(駒澤大学教授)に『宗門武庫』の講読をしていただいた。
今回ご講読いただいたのは、『宗門武庫』第17段、湛堂文準(1061-1115)の洗鉢偈の話である。文準は大慧が長く師事した臨済宗黄龍派の禅僧である。彼が分寧・雲巌院の住持になったのは黄龍死心(1044-1115)の推挙によるが、その推挙の理由はひとえに文準の「洗鉢頌」を高く評価したからであり、面識すらなかった。その「洗鉢頌」とは以下のものである、「之乎者也 衲僧鼻孔大頭向下 若也不會問取東村王大姐(“なりけりあらんや”も なんのその わが鼻は このとおり ちゃんと下向きについておる そこのところが解らなければ そこらのおばちゃんにきくがよい)」。現実の役に立たない書物の学問とは関わりなく、己が鼻はもとより下向きについているというありのままの事実は、東村王大姐(そこらのおばちゃん)のほうがよほど素直に体現していると詠ったのである。文準は住持となった後も、一介の修行僧だった往時と何ら変わる所なく、自ら身を律して簡素に暮らした。その古人の気風を具えた様は、まさに後世の者たちにとっての良き模範だったという。

小川先生もいそがしいのだろう。老師もよく覚えている。

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