管長日記「馬祖禅師の教え」解釈20241026

馬祖大師を振り返ることを、老師は最近考えているようだ。
よく馬大師と書かれるが、確かに臨濟宗の基盤であることには違いない。六祖慧能までは共通基盤と言ってもよいだろう。そもそもは如來藏、唯識の思想であって、特に六祖慧能が金剛経を強調したような経典的な思想背景である。六祖慧能遷化の段階で、石頭宗、洪州宗、荷沢宗にわかれた。洪州宗が、南嶽懐奘―馬祖道一による。おおらかで単純(いい意味で)という印象がある。この個性を基盤として臨済宗と潙仰宗となった。臨済宗の基盤は臨済義玄その人の在りよう、つまり臨濟將軍とも、黄檗希運―臨済義玄によるともいえる。今風にいうなら自分軸のある思想だと思う。また潙仰宗の宗風というのも貴族・殿様型みたいに知られるが、臨済録のいたるところで潙山、仰山の師弟コンビがコメントしている。結局、唐代は洪州宗+臨済宗+潙仰宗をもって臨済宗であるような印象もある。公案による精神探求は宋代の臨済宗の強い個性であるが、唐代に限って言うなら、雲門宗(ただし、ちゃんと宋代にも続いてはいるし強者もいる)が最強な気がするし、何なら洞山良价、つまり当時の曹洞宗も思想表現、技術は強い。

馬大師といえば、馬祖語録をあたることになるが、この馬祖語録、とてもコンパクトで読みやすい(眺めやすい)。一番はじめに馬大師の生涯が書かれ、3つほど示衆があって、そのあと問答が並ぶ。問答の数は28項である。

馬祖語録のことばは、禅一般にもよくでるので、押さえておきたい。「平常心是道」、「即心是佛」、「非心非仏」、「日面仏月面仏」

構成
1.馬祖道一の履歴的情報
2.南嶽懷讓の指導
3.馬祖の説法
4.馬祖の遷化

馬大師の一通りの説明といったところだろうか。素晴らしい教科書である。

老師のテキストは、禅文化研究所発行の『馬祖の語録』から入矢義高先生の現代語訳とある。また以下での漢文はCBETA「X1321 馬祖道一禪師廣錄(四家語錄卷一)卷/篇章 一」を引いている。

■1.馬祖道一の履歴的情報
「江西道一禅師は漢州什方県の人である。姓は、馬氏、生まれ故郷の羅漢寺で出家した。容貌は人並はずれ、牛のようにゆったり歩き、虎のように眼光が鋭かった。舌を伸ばせば鼻にとどき、足の裏には二輪文があった。幼時に資州の唐和尚の下で剃髪し、渝州の円律師に具足戒を受けた。」

「舌を伸ばせば鼻にとどき、足の裏には二輪文があった」とは仏陀を表す形容の一つですが、「牛のようにゆったり歩き、虎のように眼光が鋭かった」とは「牛行虎視」といって馬祖禅師の特徴として知られています。

これは、馬祖語録の第一項のはじめのところにある。
「江西道一禪師。漢州什方縣人也。姓馬氏。本邑羅漢寺出家。容貌奇異。牛行虎視。引舌過鼻。足下有二輪文。幼歲依資州唐和尚落髮。受具於渝州圓律師。」

この第一項の全文は次である。

江西道一禪師。漢州什方縣人也。姓馬氏。本邑羅漢寺出家。容貌奇異。牛行虎視。引舌過鼻。足下有二輪文。幼歲依資州唐和尚落髮。受具於渝州圓律師。唐開元中。習定於衡嶽傳法院。遇讓和尚。知是法器。問曰。大德坐禪圖什麼。師曰。圖作佛。讓乃取一磚。於彼菴前磨。師曰。磨磚作麼。讓曰。磨作鏡。師曰。磨磚豈得成鏡。讓曰。磨磚既不成鏡。坐禪豈得成佛耶。師曰。如何即是。讓曰。如牛駕車。車不行。打車即是。打牛即是。師無對。讓又曰。汝為學坐禪。為學坐佛。若學坐禪。禪非坐臥。若學坐佛。佛非定相。於無住法。不應取捨。汝若坐佛。即是殺佛。若執坐相。非達其理。師聞示誨。如飲醍醐。禮拜問曰。如何用心。即合無相三昧。讓曰。汝學心地法門。如下種子。我說法要。譬彼天澤。汝緣合故。當見其道。又問曰。道非色相。云何能見。讓曰。心地法眼能見乎道。無相三昧。亦復然矣。師曰。有成壞否。讓曰。若以成壞聚散而見道者。非見道也。聽吾偈。曰。心地含諸種。遇澤悉皆萌。三昧華無相。何壞復何成。師蒙開悟。心意超然。侍奉十秋。日益玄奧。初六祖。謂讓和尚云。西天般若多羅讖。汝足下出一馬駒。蹋殺天下人。葢謂師也。讓弟子六人。惟師密受心印。始自建陽佛跡嶺。遷至臨川。次至南康龔公山。大曆中。隷名於鍾陵開元寺。時。連帥路嗣恭。聆風景慕。親受宗旨。由是。四方學者。雲集座下。讓和尚聞師闡化江西。問眾曰。道一為眾說法否。眾曰。[A1]已為眾說法。讓曰。總未見人持箇消息來。遂遣一僧往彼。俟伊上堂時。但問作麼生。待渠有語記取來。僧依教往問之。師曰。自從胡亂後三十年。不少鹽醬。僧回。舉似讓。讓然之。師入室弟子。一百三十九人。各為一方宗主。轉化無窮。師於貞元四年正月中。登建昌石門山。於林中經行。見洞壑平坦。謂侍者曰。吾之朽質。當於來月歸茲地矣。言訖而回。既而示疾。院主問。和尚近日尊候如何。師曰。日面佛月面佛。二月一日沐浴。跏趺入滅。元和中。諡大寂禪師。塔曰大莊嚴。

■2.南嶽懷讓の指導
馬祖禅師は南嶽禅師のところで悟ったのでした。

「唐の開元年間、衡岳の伝法院で坐禅を修した時、譲和尚に出会った。 南岳懐譲は法器と知って問うた、「大徳、坐禅してどうするつもりかな」。
師は答えた、「仏になるつもりです」。
すると懐譲は瓦を一枚取って、馬祖の庵の前で磨きはじめた。
師が云った、「瓦を磨いてどうするのですか」。
懐譲が云った、「磨いて鏡にするのだ」。
師が云った、「瓦を磨いて鏡になんぞなりますまい」。
懐譲が云った、「瓦を磨いても鏡にならぬからには、坐禅しても仏になれるものか」。
師が云った、「どうすればよろしいでしょうか」。
懐譲が云った、「牛に車を引かせる時、車が進まないなら、車を打てばよいかな、牛を打てばよいかな」。
師は答えられなかった。
懐譲はまた云った、「そなたはいったい坐禅を学ぶのかな、それとも坐仏を学ぶのかな。もし坐禅を学ぶのであれば、禅というのは坐ることではない。もし坐仏を学ぶのであれば、仏というのは定まった姿をもってはいない。定着することのない法について、取捨選択をしてはならない。そなたがもし坐仏すれば、それは仏を殺すことに他ならない。もし坐るということにとらわれたら、その理法に到達したことにはならないのだ」。
師は懇切な教えを聞いて、あたかも醍醐を飲んだ思いを」したのでした。

原文は「唐開元中。習定於衡嶽傳法院。遇讓和尚。知是法器。問曰。大德坐禪圖什麼。師曰。圖作佛。讓乃取一磚。於彼菴前磨。師曰。磨磚作麼。讓曰。磨作鏡。師曰。磨磚豈得成鏡。讓曰。磨磚既不成鏡。坐禪豈得成佛耶。師曰。如何即是。讓曰。如牛駕車。車不行。打車即是。打牛即是。師無對。讓又曰。汝為學坐禪。為學坐佛。若學坐禪。禪非坐臥。若學坐佛。佛非定相。於無住法。不應取捨。汝若坐佛。即是殺佛。若執坐相。非達其理。師聞示誨。如飲醍醐」のところだろう。
まったくその通りだろう。ただ、そうは言っても別に坐禅は健康法だとかいう必要もない。囚われることの問題だろう。

老師は「唐の開元というのは、中国の唐朝で玄宗皇帝の治世前半にあたる年号で西暦七一三年から七四一年にあたります。馬祖禅師は、七〇九年のお生まれですので、四歳から三十二歳までの間のこととなります。おそらく二十代か三十歳になったばかりのことだと察します」と説明を入れてくれる。ありがたい。

「それから「懐譲和尚は、師が江西で布教活動をはじめたのを聞いて、弟子達にたずねた、「道一は大衆のために説法しているのか」。
弟子が言った、「もう大衆のために説法をしています」。
懐譲が言った、「まだ誰もその様子を伝えて来たものがいない」。
そこで一人の僧を派遣し、次のように命じた。
馬祖の所に行って彼が上堂したら、ただ「どうですか」とだけ問い、彼が何か言ったらそれをおぼえて帰ってこいと。
その僧は指示の通りに、行って問うた。
師は言った、「いいかげんにはじめて今や三十年、塩と味噌には不自由してはいない」。
僧は帰って懐譲に伝えた。懐譲はそれを認めた。」
ということでありました。
日常の営みすべてが仏道の実践に他ならないのであります。」

語録の原文は、「讓和尚聞師闡化江西。問眾曰。道一為眾說法否。眾曰。[A1]已為眾說法。讓曰。總未見人持箇消息來。遂遣一僧往彼。俟伊上堂時。但問作麼生。待渠有語記取來。僧依教往問之。師曰。自從胡亂後三十年。不少鹽醬。僧回。舉似讓。讓然之。」

「不少鹽醬」をもって「日常の営みすべてが仏道の実践」というが、これは説法を続けて30年という実績評価も込みだろう。

■3.馬祖の説法
「馬祖は示衆して言った「諸君、それぞれ自らの心が仏であり、この心そのままが仏であることを信じなさい。達磨大師は南天竺国からこの中国にやって来て、上乗一心の法を伝えて諸君を悟らせた。」」

老師、「というように、心こそが仏であると説かれました。「即心是仏」と言います。ではその「心」とはどんなものかというと、長いお説法が残されています。煩をいとわず引用しましょう。」

ここのところの原文は、第二項、示衆の一番目にある。
「祖示眾云。汝等諸人。各信自心是佛。此心即佛。達磨大師。從南天竺國。來至中華。傳上乘一心之法。令汝等開悟。」

「馬大師は言われた、「君がもし心を知りたいというなら、今そのように語っているものが、君の心そのものなのだ。その心が仏と名づけられるものであり、また実相法身仏でもあり、道とも呼ばれるものだ。」
経典には『三阿僧祇劫に百千の名号があるのは、時と場所に順応して名を立てたものである』と言っている。
物によって色が変わる摩尼珠のように、青い物に触れると青くなり、黄色い物に触れると黄色くなるが、その本体はどんな色でもない。
指が自らの指に触ることができず、刀が自らを切ることができず、鏡が自らを映すことができないように〔心も自らの心を見ることができず〕、その時その場の条件に対応して〔心が〕見て取った対象にそれぞれ名が付けられるのである。
この心は虚空と同じ寿をもち、たとい六道輪廻して、いろいろな形のものに生まれ変わっても、この心ばかりは生ずることもなく、滅することもなく不変である。
しかし衆生はこの自らの心が見て取れぬため、むらむらと迷いごころを起し、いろいろな業を作ってその報いを受け、本性を見失って、俗世のしきたりに執われるのである。
四大(地・水・火・風)の肉身は生滅するが、霊覚の性は生滅することはない。
君が今この本性をこそ悟ることを、長寿というのであり、また如来寿量ともいい、本空不動性ともいうのである。」
と説かれています。

ここのところは原文では宗鏡錄巻14から引用されている。
《宗鏡錄》卷14:
馬祖大師云。汝若欲識心。秖今語言。即是汝心。喚此心作佛。亦是實相法身佛。亦名為道。經云。有三阿僧祇百[1]千名號。隨世應處立名。如隨色摩尼珠。觸青即青。觸黃即黃。體非一切色。如指不自觸。如刀不自割。如鏡不自照。隨緣所見之處。各得其名。此心與虛空齊壽。乃至輪迴六道。受種種形。即此心未曾有生。未曾有滅。為眾生不識自心。迷情妄起諸業受報。迷其本性。妄執世間風息四大之身。見有生滅。而靈覺之性。實無生滅。汝今悟此性。名為長壽。亦名如來壽量。喚作本空不動性。

呉進幹 (戒法)、臨済禅の思想史的研究、――その形成と展開――、花園大学大学院文学研究科、令和元年度博士学位請求論文、p.19を参照している。この論文は良い。
おそらく、『馬祖の語録』にこの宗鏡録について触れられているのではなかろうか。

「師の入室の弟子は百三十九人である。それぞれがひとかどの宗主となり、その教えは果しなく拡がった。」とある通り大勢の弟子が育ったのでした。

「師入室弟子。一百三十九人。各為一方宗主。轉化無窮。」

■4.馬祖の遷化

「師は貞元四年正月、建昌の石門山に登り、林の中をそぞろ歩きし、洞穴が平らなのを見て侍者に言った、「私の身は、来月ここに帰ることになろう」。言いおわって帰ると、やがて病に臥した。
院主がたずねた、「和尚、このごろお具合はいかがですか」。
師が言った、「日面仏、月面仏」。
二月一日、沐浴し結跏趺坐して入滅した。」

「師於貞元四年正月中。登建昌石門山。於林中經行。見洞壑平坦。謂侍者曰。吾之朽質。當於來月歸茲地矣。言訖而回。既而示疾。院主問。和尚近日尊候如何。師曰。日面佛月面佛。二月一日沐浴。跏趺入滅。」

「西暦でいうと、七〇九年に生まれ、七八八年に亡くなっています。世寿八十のご長命でありました。」

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