今日の管長日記20240924

日記のタイトルは「幸せな最期を迎えるために」、死についての話は久しぶりな印象だった、画面の写真から病院とわかった。
諏訪中央病院での「ほろ酔い勉強会」についての日記も定期的にあって、また講演動画も別に投稿されていたように思う。最近はイス坐禅のやり方について投稿があったように思う。

今日の話は直接的、また一般的にある死についてであり、身近な現実といった意味で、真面目な題目である。

構成は、
1.会の紹介、「ほろ酔い勉強会」、諏訪中央病院(長野県)、鎌田實先生は名誉院長、参加100名超
2.看護師のお話1、在宅看取り、年二十件ほど担当、ケアマネージャーなど相談できる
3.看護師のお話2、「お食いじめ」、鰻とお酒、「ウナギをもって家族と写った写真は素敵な笑顔」
4.老師のお話、看護師のお話に「感銘を受けた」、「人生はどうなるか分か」らないので「死生観を持っておくことの大切さをお話しました。」
 井上義衍老師(曹洞宗師家)「死なんて、小便するのと同じことですわ、ただそうだったというだけ」
 山本玄峰老師は、お亡くなりになる前に葡萄酒をおいしそうに飲んで、十分ほどのちに「旅に出る、きものを用意しろ」と言われて亡くなられたそうです。
 「生は寄なり、死は帰なり」『淮南子』
「人は天地の本源から生まれて暫くこの仮の世に身を寄せるに過ぎないが、死はこの仮の世を去ってもとの本源に帰ることである」
 朝比奈宗源老師、「天地の本源」を「仏心」と説き、「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る」
 柳宗悦さん「吉野山 ころびても亦 花の中」、どこでどのような死に方を迎えても、それは万朶の花咲くただ中なのだ
5.桜井先生、「どんな悲惨な死を迎えたようでも、どんな状況であっても死の祝福がある、どこでどういう状況で亡くなっても祝福されていると確信」
 死というのは捨てていく営みだというのです。趣味、お金に対する執着、異性に対する関心、家族との関わりも、みな手放してゆく。最後に残るのは自然とのふれあいだ。
 普段から手放すこと、出すことを訓練しておくこと。
 何かを得ることばかり考えるのではなく、与える生き方。
 特別な寄付だけでなく、日常の暮らしでも笑顔を与える、なにか手伝ってあげると、このように出すこと、手放すことに慣れていると、最期ににっこり微笑んで迎えることができる。

亡くなるとき、病院か自宅かという問題は、実は影響の大きな話だと思う。特に都市部や子供がいない場合、とかもあると思う。自宅、病院、施設と挙げられたが、差別的にならないと良いと思う。

老師の「生死観」、桜井先生の「手放す」についても本人の問題だろう。基礎的なところは、「仏心の中に息を引き取る」、「最後に残るのは自然とのふれあい」にある、という話。

「普段から手放すこと、出すことを訓練」ということは「寄付、笑顔、手伝うといったことに慣れる」ということだった。特に無理をするような言い方もしていない。

布施や持戒、十善戒といったことだろう。日常、今のことを思う。

井上義衍(1894-1981)、曹洞宗師家会会長、日泰寺で参禅中、市街地に出かけて観劇の最中に悟りを開く。大悟。浜松龍泉寺住職となる。さらに、講師を務めるの縁で、飯田欓隠に参禅、師の鉄槌を受ける。後年、ホオジロの声を聞いて、身心脱落、仏道修行に真に決着がつく。
飯田欓隠(1863-1937)は少林窟道場の開山。曹洞宗系の座禅道場。

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