石霜楚圓の引錐自刺
引錐自刺は、いんすいじし、と読む。
白隠禅師は20歳のとき、瑞雲寺の馬翁和尚に従事していた。
当時の白隠青年は「こうやって日をうち過ぎていても、わが心中は少しも穏やかではない」と悶々としていた。
虫干しの際に、運試しに黙祷して、一冊の書物を手に取った。それが『禅関策進』であった。
開いたところ「引錐自刺」の章がでてきた、ということだそうだ。
(芳沢勝弘『新版 白隠禅師年譜』禅文化研究所参照)
袾宏輯(編)の『禪關策進』、テキストデータはSAT
引錐自刺
慈明谷泉瑯琊三人。結伴參汾陽。時河東苦寒。衆人憚之。
慈明志在於道。曉夕不忘。夜坐欲睡。引錐自刺。後嗣汾陽。
道風大振。號西河師子
錐を引き自ら刺す
慈明、谷泉、瑯琊の三人、伴を結んで汾陽に參ず。
河東の苦寒の時、衆人は之を憚る。
慈明、道に志在り、曉夕忘れず。
夜坐して睡を欲す。錐を引いて自ら刺す。
後に汾陽を嗣ぐ。道風は大いに振う。西河の師子と號す。
因みに汾陽は汾陽善昭(946-1023)で、慈明は石霜楚圓(986-1039)である。
汾陽善昭の語録の第二巻(全三巻)は初の公案集といわれているようだ。
巻のタイトルは「汾陽無德禪師頌古代別卷中 門人住石霜山慈明大師楚圓集」となっていて、看話禪という合理的な手法の始まりか、もしくは看話禅を加速させたのはこのころなのだと思えてくる。法系は次のとおりで、石霜楚圓は方會と慧南の師匠であった。
臨済義玄―興化存奨―南院慧顒―風穴延沼―首山省念―汾陽善昭―慈明楚円―{楊岐方會、黄龍慧南}
白隠20歳の逸話は『禪關策進』の「重刻禪關策進後序」に記載される。ここのところの逸話は次である。なお、この後序は「寶暦十二年龍集壬午孟正月 住豆之龍澤東嶺頭陀圓慈恭書」と末尾に記載がある。
次年至濃之瑞雲。從事馬翁。與温馬山輩結伴。互論詩文。一日閑坐之次。
翻然思曰。身僧而嗜俗事。志俗而預僧倫。大丈夫恁麼打過亦有不保處。
時當晒書之節。内外經籍堆在堂上。翁竊往禮拜。懇祷曰。儒佛老莊諸家之道。
我以何爲師。願護法天龍。示我于正路。閉目良久。任手把著。得一小册。
名禪關策進。頂受披之。即撞著引錐自刺章。且其考記曰。昔慈明在汾陽時。
與大愚瑯琊等六七人結伴參究。河東苦寒。衆人憚之。明獨通宵坐不睡。
自責曰。古人刻苦。光明必盛大也。我又何人。生無益于時。死不知于人。
於理有何益。即引錐自刺其股。翁至此志氣憤激。如呑醍醐。遂乞求其書於馬翁。
常爲照心辦道之友。行住相隨。自是踏開岩頭醜面目。根塵剥落。
觸著道鏡惡毒手。見知喪盡。年過不惑。
「古人刻苦、光明必ず盛大なり。我れ又た何人ぞ、生きて時に益無く、死して人に知られずんば、理に於いて何の益か有らん。(古人刻苦。光明必盛大也。我又何人。生無益于時。死不知于人。於理有何益。)」という有名な石霜楚圓の台詞はここから取られている。
この後序には「吾闡提老翁。自從幼聞泥犁苦境頻求解脱已來。祈神誓佛。水火不怖。責身苦心。寢食稍廢。一朝見法華經因縁譬喩之説。錯爲不足取。失力三四年也。十九歳復在禪叢衆寮。因見岩頭和尚末後爲賊害。大叫一聲聞數里外。又大失志。」から20歳の白隠慧鶴の逸話が入っている。「吾闡提老翁」、つまり吾が一闡提の老翁と白隠禅師のことをいっているようだが、幼少のころからの逸話を読むと、そうかもしれない。