管長日記「本日より臘八」解釈20241201
本日から臘八とは、今日が12月1日ということだ。もう12月になってしまった。
禅でいえば、臘八接心である。語録などでいえば、臘八の示衆というのはなかなか良い修行に対する熱い法話である。だいたい、励ましみたいなところがあって、特徴的なのだ。
白隠『臘八示衆』という法語は有名だろう。
東嶺圓慈『五家參祥要路門』をご存じだろうか。ここの「附録(二門)」章、これがたぶん、その白隠『臘八示衆』なのではなかろうか。
今日は1日目、つまり「臘八示衆第一」節にあたるのだろう。第一夜示衆曰~から第七夜示衆曰~の7日分載っている。夜に開催しているのだろう。徹夜に備えて、といったところか。
構成:
1.臘八接心について
2.盤珪禅師の臘八接心の考え
3.洪川老師の考えと「兀(ごつ)」
4.朝比奈宗源老師の考え
老師は、おそらくイベント、講演で忙しいのでは、と思うのだが、臘八攝心にも顔を出すのだろう。禅寺では12月は忙しい月であるのだろう。
最近、気温の変化が激しいのだが、12月に入ると一気に寒くなってくるような気がする。気を付けたい。
■1.臘八接心について
「本日十二月一日です。本日より修行道場では、臘八の摂心に入ります。」
「臘八<ろうはつ>とも。宋の呉自牧『夢粱録』7に「十二月八日、寺院これを臘八と謂う」とあり、釈尊の成道の日をいう。
また、<臘八接心>の略。禅院では釈尊の成道に因んで、自らの修行を策励し、かつまた仏恩に報いるため、12月1日から12月8日の朝まで、横に臥して眠ることなくひたすら坐禅を行ずるならわしである。」(岩波『仏教辞典』)
老師によると「いつの頃からは分かりませんが、『仏教辞典』にある通り、十二月一日から八日の未明まで坐禅の修行をいたします」ということらしい。
■2.盤珪禅師の臘八接心の考え
盤珪禅師「師、臘月朔日衆に示して曰、身どもが所は、 常平生が定座で居まする所で、 諸方のごとく今日より定座といふて、各別にあがきつとむる事はござらぬ。」
「しかも、眠る僧がいて、それを叩く僧がいると、眠った僧ではなくて、叩いた方の僧を叱ったのでした。眠れば仏心で眠り、覚めたら仏心で覚めるだけのことで、仏心が別のものになるということはないというのです。」
■3.洪川老師の考えと「兀(ごつ)」
洪川老師『亀鑑』、「孜々兀々朝参暮請、歳月の久しきを厭わず 親切懈らずんば、多時異日、一大廈屋を成立して輪奐の美を極むるや必せり。」
孜々兀々朝参暮請を”ししごつごつ、ちょうさんぼしょう」と読んでいた。音声がわかるのはありがたい。
亀鑑とは、手本とか模範という意味。
「ひたすら修行に励む」という様子を「孜々兀々」と言う。
「朝参暮請」は、朝に晩に師に参じて教えを請う意味。
「孜孜」の「孜」はつとめるという意味。
「孜孜」で「こまめにつとめるさま」。
「問題は「兀」であります」と老師。
「音でコツ、またはゴツ。意味は、高くて上が平らなさま。はげているさま。山に草木がないさま。羽毛がないさま。思慮や知覚を忘れ去ってぼうっとしたさま。無為自然の境地と無知蒙昧との両方に用いる。」(『漢辞海』第四版)
「兀同体於自然(ごつとしてたいをしぜんに同じくす)、茫然とすべてを忘れて自然と一体になる。
また(刑を受けて〕足を切断されたさま。
「兀者」とは「足を切断された人」。
もともとは高くて上側が平らなことをいうようです。
「兀兀」
①高くそびえるさま。
②ぼうっとしたさま。
③ひたす努力するさま。
④静止しているさま。
孜孜兀兀は、ひたすら努力するさまであります。
「兀然」「ぼうっとしたさま」
「兀兀」は「一心に努力するさま。勤苦するさま」。
「兀坐」とは「正しく端坐するさま。坐禅の真実のすがた。」
「兀地」は「山のごとく不動なさま。一心不乱につとめるさま。」(『禅学大辞典』)
「被礙兀地」(道元『普勧坐禅儀』)
「被礙はまとって離れない意。常に坐禅して、しばしも離れず、動かないこと。坐禅三昧となること。」
『普勧坐禅儀』に、「唯打坐に務めて兀地に礙えらる、万別干差というと雖も、祗管に参禅弁道すべし」と説かれる。
「まさしく臘八の摂心は兀兀とただ坐り抜くのであります。」
■4.朝比奈宗源老師の考え
「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。掘れば出ると思うから骨も折れる。だから我々の修行もそれと同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。」
南嶺老師は、「自分にも仏心があるのだ、やればできるのだと信じることが真心であります。これを地盤とします。よしやろうという志、願いを礎石とします。そうして真実の目覚めを棟や梁とするのです。そうすれば、立派な建物が出来るように、人格が形成されてゆきます。」
「真心」というのが南嶺老師のことばといった印象がある。延命十句観音和讃でも使われている。
朝比奈老師の坐禅の注意点
「そうしといて、井戸を掘るには井戸を掘る方法がある。道具もいる。努力もいる。坐禅も亦然りだ。やればキッと出来る。どうすればよいかということを考えねばならぬ。それには何時も言うように坐相に気を付けることだ。姿勢をよくし、腰を立てて、息を静かに調えて、深く吸ったり、吐いたりして、丹田にグッと力を入れる修行をせねばいかん。
腰を立てないとどんなにしても力が入らん。冗談みたいに言うが、尻の骨が曲がって、尻が前の方に向いてオナラをすると、オナラが前に出るような腰つきでは絶対いかん。グッと起こしてお尻の穴が後ろを向いているようにして、そうして下腹を前に出して、グッとーこうして坐る。」
「腰を立てて丹田に気を充たして乗り切ってゆくのであります。この春に修行道場に入った者にとっては、一番の試練となります。またこの摂心を乗り切っていくことで大きな自信にもなってゆきます」と、南嶺老師は励ます。
■東嶺圓慈『五家參祥要路門』「附録(二門)」第一夜示衆曰~
朔日夜示衆曰。夫修禪定者。先須厚敷蒲團。結跏趺坐。寛繋衣帶。
竪起脊梁骨。令身體齊整。而始爲數息觀。無量三昧中。以數息爲最上。
令氣滿丹田。而後拈一則公案。直須要斷命根。若如是積歳月不怠。
縱打大地有失。見性決定不錯。豈不努力乎。豈不努力乎