臨済禅の日本伝来

「第1453回「博多の禅」2024/12/29【毎日の管長日記と呼吸瞑想】」より

初伝、明菴栄西(みょうあんようさい、1141-1215)

1154年、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。以後、天台宗と密教を学ぶ。葉上流を興す。
1157年、静心が遷化、翌年に千命より虚空蔵求聞持法を受ける。
1167年、大山寺基好より両部(金剛界・胎蔵界)灌頂を受ける。1168年、形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、9月に『天台章疎』60巻をもって、重源らと帰国した。(第一回入宋、栄西が天台密教に没頭)
1169年、備前金山寺を復興、1175年、誓願寺落慶供養の阿闇梨。
1187年、再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
1189年、虚庵懐敞に随って天童山景徳寺に移る。菩薩戒を受ける。
1191年、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の号を授かる。同年、帰国。九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って肥前霊仙寺にて栽培。
1194年、能忍と栄西に禅宗停止が宣下。
1195年、博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
1198年、『興禅護国論』執筆。禅が仏法復興に重要であることを説く。京都から鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
1200年、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
1202年、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。
1204年、『日本仏法中興願文』を著す。
1212年、法印に叙任。
1215年、享年75(満74歳没)で入滅。

第二伝、道元(どうげん、1200-1253)
1213年、天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。
1217年、建仁寺にて栄西の弟子の明全に師事。
1223年、明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡る。1225年、天童如浄「身心脱落」で得悟。中国曹洞禅を嗣ぐ。1227年、帰国。
1233年、京都深草に興聖寺を開く。「正法眼蔵」「現成公案」執筆。1234年、孤雲懐奘が入門。比叡山から弾圧を受ける。
1243年、越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。
1244年、大佛寺を開く。1246年、大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。
1247年頃、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。
1253、病により永平寺の住職を、弟子孤雲懐奘に譲り、没す。享年54(満53歳没)。
孝明天皇より「仏性伝東国師」の国師号、明治天皇より「承陽大師」の大師号が宣下。

第三伝、聖一国師(円爾)(しょういちこくし(えんに)1202-1280)
18歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒)、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学ぶ。
1235年、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした(道号はなし)。
1241年、宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、上洛して東福寺を開山する。臨済宗の流布に力を尽くした。禅密兼修。東大寺大勧進職に就く。
晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの安倍郡蕨野で禅宗を流布。
没後の1311年、花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた。

第四伝、法燈国師(心地覚心)
第五伝、大覚禅師蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、1213-1278)
第六伝、兀庵普寧
第七伝、大休正念
第八伝、無象静照
第九伝、仏光国師

博多地方での禅
・崇福寺、堪慧禅師が開創、堪慧禅師も入宋し無準禅師に参じた
 聖一国師が開堂演法し、後に大応国師南浦禅師が住されて、大いに禅風を挙揚されたお寺です。
 崇福寺は慶長六年(1601)に黒田長政が福岡に築城した折に今の博多の地に移転
・聖福寺、承天寺、崇福寺は博多の三刹

・小池心叟老師の法嗣
承天寺の遠藤楚石老師が最初の弟子
なお横田南嶺老師は最後の弟子

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