大乘起信論(16)
復た次に,是の如く三昧に依るが故に、則ち法界は一相なりと知り、一切の諸佛の法身與と眾生身とは平等にして無二なれば、即ち一行三昧と名づけると謂う。當に知るべし、真如は是れ三昧の根本なり。若し人が修行すれば。漸漸に能く無量の三昧を生ずるなり。或は眾生有りて、善根力無ければ、則ち諸魔の外道、鬼神之所の為に惑亂し、若しくは坐の中に於て形を現して恐怖せしめ、或は端正なる男女等の相を現わさんに、當に唯心のみなるを念ずべし。境界は則ち滅して、終に惱むことに為ざる。或が、天像と菩薩像を現わし、亦た如來像を作して相好具足し、若しくは陀羅尼を說き、若しくは布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧を說き、或は平等、空、無相、無願、無怨無親、無因無果、畢竟空寂は是れ真涅槃と說き、或は人をして宿命の過去之事を知り、亦た未來之事を知り、他心智を得て辯才無礙なら令め、能く眾生をして世間の名利之事に貪著せ令め、又た人をして數(しばしば)瞋り數喜びて、性に常准無くせ使め、或は多慈愛多睡多病にして、其の心を懈怠なら令め、或は卒(にわか)に精進を起こして後に便ち休廢し、不信に於いて生じて多疑多慮し、或は本の勝行を捨てて更に雜業を修し、若しくは世事を著して種種に牽纏(けんてん)し、亦た能く人をして諸の三昧の少分相似せるを得せ使むるも、皆な是れ外道の得る所、真の三昧に非ず。或は復た人をして若しくは一日、若しくは二日、若しくは三日、乃至、七日、定の中に於て住し、自然の香美なる飲食を得て、身心は適悅(ちゃくえつ)して飢えず渴せざら令め、人をして愛著せ使め、或は亦た人をして食するに分齊無く、乍(たちま)ち多く乍ちに少なくして顏色を變異せ令む。是の義を以っての故に、行者は應に常に智慧で觀察し、此の心をして邪網に於て墮せ令めること勿かるべし。當に勤めて念を正しくして取せず著せざるときは、則ち能く是の諸の業障を遠離せん。應に知るべし、外道の所有(あらゆる)三昧は、皆な見愛我慢之心を離れず、世間の名利と恭敬とに貪著するが故なり。真如三昧者、見相に住せず、得相にも住せず、乃至、定より出で亦た懈慢無ければ、所有(あらゆる)煩惱は漸漸に微薄となる。若し諸の凡夫にして此の三昧法を習ぜずんば、如來種性に入るを得んという、是の處(ことわり)有ること無し。世間の諸禪三昧を修せば多く味著を起し、我見に於て依りて三界に繫屬(けぞく)し、外道與と共(ぐう)なるを以ってなり。若し善知識の護る所を離るなら、則ち外道の見を起こす故なり。
復た次に、精勤して專心に此の三昧を修學する者、現世に當に十種の利益を得べし。云何が十と為す?一者、常に十方の諸佛、菩薩之所の為に護念する。二者、諸魔、惡鬼の所の為に能く恐怖せず。三者、九十五種の外道、鬼神之所の為に惑亂せず。四者、甚深之法を誹謗するを遠離し、重罪業の障も漸漸に微薄となる。五者、一切の疑と諸の惡覺觀とを滅す。六者、如來の境界に於いて信は增長するを得て、七者、憂悔(うげ)を遠離し、生死の中に於いて勇猛にして怯ならず。八者、其の心は柔和にして、憍慢に於いて捨て、他人の所の為に惱まず、九者、未だ定を得ざると雖も,一切時と一切の境界の處に於て、則ち能く煩惱を減損し、世間を樂わず。十者、若し三昧を得るなら、外緣たる一切の音聲之所の為に驚動せず。