管長日記「元寇を思う – 敵国降伏の門 –」解釈20241228
元寇(1274,1281)、円覚寺とは関係が深い。元寇そのものではなく、戦いで無くなった人々の鎮魂の為に建立された為といわれる。
wikipediaで「元寇」をみてみた。
元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。
とても記載が多く、かなり詳細な内容である。その中に、弘安の役の際の無學祖元のことばについて記載があった。
無学祖元による進言
1281年(弘安4年・至元18年)、弘安の役の一月前に元軍の再来を予知した南宋からの渡来僧・無学祖元は、北条時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与え[265]、さらに「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた[265]。これはのち「驀直前進」(ばくちょくぜんしん)という故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は禅の大悟によって精神を支えたといわれる[265]。なお無学祖元はまだ南宋温州の能仁寺にいた頃の1275年に元軍が同地に侵入し包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる[265]。
なお、円覚寺については、「元・高麗連合軍の損害」項の右横の写真付き枠欄で取り上げられる。
円覚寺・舎利殿 円覚寺(えんがくじ)は北条時宗が元寇の戦没者を敵味方問わず追悼するため創建した寺。開山は南宋出身の無学祖元。 国宝・神奈川県鎌倉市山ノ内409
そこに円覚寺へのリンクがあり、
円覚寺のページへは、元寇→北条時宗→円覚寺とクリックする。円覚寺のページに次のようにあった。
「鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。」
構成:
1.「元寇」、老師博多へ行く
2.筥崎宮と亀山上皇
3.文永の役、弘安の役
■1.「元寇」、老師博多へ行く
「鎌倉時代、元の軍隊が日本に来襲した事件。元のフビライは日本の入貢を求めたが鎌倉幕府に拒否され、1274年(文永11)元軍は壱岐・対馬を侵し博多に迫り、81年(弘安4)再び范文虎らの10万を送ったが、2度とも大風が起こって多くの元艦が沈没した。蒙古襲来。文永・弘安の役。」(『広辞苑』)
「そんな元寇と縁が深いのが円覚寺であります。円覚寺は、弘安の役が終わった明くる年に創建され、元寇で亡くなった敵味方両軍の御霊を供養したのでした。九州博多にある筥崎宮もまた元寇に縁の深い神社であります。」
そして、「先日は博多にでかけた次いで、筥崎宮(はこざきぐう)にお参りしました。十二月は、はじめの一週間は臘八の大摂心で一歩も寺の外に出ることなく、修行に励み、月の後半は、京都に行っては花園大学での授業、禅文化研究所の仕事を済ませていったん鎌倉に帰り、山口にでかけて朴の森で講演してまた一度鎌倉に帰り、新大阪で若獅子の会で講演し、そのまま博多に出かけました」という近況であるという。
「博多に私の兄弟子が住したお寺があり、そこで兄弟子の津送が行われたのでした。」
津送(しんそう)は、禅宗での和尚の葬儀のこと
■2.筥崎宮と亀山上皇
「筥崎宮は醍醐天皇の延長元年(九二三年)に創建され、延喜式神名帳に八幡大菩薩筥崎宮一座名神大社とある。宇佐・石清水両宮と共に日本三大八幡として朝野の崇敬あつく、特に鎌倉時代以降は武神として武家の信仰をあつめた。なお、「敵国降伏」の宸翰を掲げる楼門は伏敵門として有名である。」
「伏敵門」には、「敵国降伏」の大きな額が掲げられています。これは亀山上皇に因む。
亀山上皇(1249-1305)、当時の新興宗教である禅宗・律宗を手厚く保護した。五山別格とされ臨済宗寺格第一である南禅寺は、無関普門(大明国師)に帰依した亀山天皇の勅願による)
亀山上皇と蒙古襲来という解説の掲示
「亀山上皇は鎌倉時代、正元一年(一二五九)に第九十代天皇に即位され、文永十一年(一二七四)で譲位、上皇となられた。この時期、二度に亘り起こったのが、日本最大の国難と云われる蒙古襲来 (元寇) である。モンゴル高原モンゴル族のチンギス・ハンは蒙古国を興し、勢力を伸ばした。その孫であるフビライ・ハンは国号を元と改め、大陸での支配域を急速に拡大すると共に、我が国も支配下に治めようと文永五年(一二六八)より幾度か国書を携えた使者を立て服属を迫った。朝廷及び鎌倉幕府はこれを断固一蹴、執権北条時宗は御家人に異国警固を命じ、防御体制の強化を図った。亀山上皇はこの国難に際し「我が身を以て国難に代わらん」と自ら異国降伏祈願を行うと共に、全国の神社・仏閣に祈願を命じられた。このような日本の対応に業を煮やしたフビライは武力による日本侵攻を決意したのである。
文永十一年(一二七四)、元は兵士およそ三万人、軍船九百艘で対馬・壱岐を侵略、十月二十日博多湾の今津に達し、百地原沿岸より上陸した。九州御家人の大将少弐氏が指揮する武士団は箱崎をはじめ各地で元軍を迎え撃った。初めは元軍の戦法に苦戦を強いられたが、赤坂、鳥飼(とりかい)、百道原(ももちばる)、姪浜(めいのはま)に於いて武士団は奮戦勝利した。元軍は日没と共に船に撤退したがこの夜大風が吹き大半が海の藻屑と化した。これを文永の役という。
この時、筥崎宮も兵火に遭ったが、亀山上皇は被害を受けた本宮社殿の再建に尽くされ国家安泰を祈念して「敵国降伏」の御宸翰を下賜された。幕府は再度の襲来に備えて湾内西は今津から東は香椎まで約二十キロにわたり石築地(元寇防塁)を設けるなど更なる防衛体制の強化に務めた。」
老師は「亀山上皇の敵国降伏の額」について言及しているが、これは「「敵国降伏」の宸筆」とよばれるようだ。
筥崎宮のホームページ記載:敵国降伏の御宸筆は本宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。 縦横約18センチで全部で三十七葉あります。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名で、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものが掲げられています。
■3.文永の役、弘安の役
文永の役は、わずか一日の戦闘で元軍は撤退と、また大風は吹かなかったのではないかという説がある。
筥崎宮に祀られる亀山上皇の尊像は、明治時代に博多出身の彫刻家 山崎朝雲によって作られた。
本殿の案内「敵国降伏のいわれ」
「敵国降伏のいわれ 筥崎宮楼門に揚げられる敵国降伏とは、鎌倉期に亀山上皇が納められた御宸筆(天皇の自筆)を模写拡大したものです。その意味は武力で相手を降伏させる(覇道)ではなく徳の力をもって導き相手が自ずから靡(なび)き降伏するという王道である我が国のあり方を説いています」
その橫にある明治天皇の御製
おのが身はかへりみずして
人のためつくすぞ
人のつとめなりける
「自分自身のことは考えもせずしてただ人のため世のため一生懸命につくすということが、人の世に生きてゆく大事なつとめである。とかく人は自分のことには力をつくすが、人のためにつくすということはさけて通やすいものである、それだけ人のためにつくすといふことはありがたく尊いことである」
老師は、「お参りしてこういうよい教えをいただけるのは有り難いことであります。」
このスタンスが老師の個性かもしれない。また寺社経営をしているのであって、お参りすること、それは常に勉強なのかもしれない。
「弘安の役には、十万を超える軍勢が襲ってきたのでした。そして二ヶ月にもわたって奮戦して上陸を防いだのでした。」
「また筥崎宮に入り口に明石元二郎(1864-1919)の顕彰碑が最近できたようで、拝見しました。明石元二郎は、日露戦争にも大きな功績がありました。戦争中ロシア国内の攪乱を狙った諜報活動を展開していたのでした。大正七(1918)年には台湾総督になっています。釈宗演老師にも参禅された方でもあります。」
釈宗演との関りは貴重な情報かもしれない。
ちょっと思ったのだが、禅僧以外で参禅する有名人といえば、皇族、貴族、士大夫(官僚)、文化人(文学、芸術など)なのだが、日本では武士、明治から昭和終戦までは軍人なのだ。政治的体制のためなのだが、考えてみれば不思議なものだ。
「元寇は実に国難でありました。北条時宗公は、この国難にたちむかい、元寇の明くる年弘安五年に円覚寺を開いて敵味方の御霊を供養して、弘安七年数え年三十四歳でお亡くなりになったのでした。」