今日の管長日記20240921
鶴岡八幡宮での例大際に参加したことのお話。
聴いていると前半が当日の樣子、後半が八幡についての解説。
このパターンは、どこかに訪問した際に、概要と当日の状況+解説・結論といったと書く形式であり、よくある書き方である。
構成、
1.鶴岡八幡宮への参拝に向かう、過去を思い出す、三代将軍源実朝の甥の公暁による暗殺、大銀杏
2.儀式の樣子
宮司が神様のとびらの鍵を開け、供えものを捧げ、祝詞を奏上。
円覚寺では開山忌が一番大事な行事で、開山忌というのは、御開山にお茶やご飯やお香をお供えし、管長が香語を唱える。
鎌倉市長、地元の国会議員、県会議員、市議会議員が玉串を捧げて拝礼、そのまま退席と忙しそう
そのあと、箱根神社や、江島神社、富岡八幡宮などの各神社の宮司拝礼、そのあと「臨済宗円覚寺派管長」と呼ばれる。
3.かつて鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮寺という名、広辞苑、仏教辞典を参照しての解説
「鶴岡八幡宮」、「八幡宮」
八幡宮: 八幡神を祭神とする神社の総称
4.「八幡神」の追求、広辞苑、仏教辞典を参照しての解説
「八幡神」、「八幡」
「八幡掛けて」というと「誓って」という意味。
「八幡太郎」は「(頼義の長子で、石清水八幡で元服したことからいう)源義家の通称。」
八幡神: 元々は九州宇佐地方の神様→応神天皇の化身とされる武神→特に武士の間で信仰を集め、日本を代表する神→平安時代、神仏習合により「八幡大菩薩」~八幡神と八幡大菩薩、八幡大明神は同じ
非常に勉強になった。鶴岡八幡宮は、鎌倉の筆頭観光スポット、最重要ポイントである。北鎌倉~鎌倉のルートが日帰り神社仏閣観光ルートである。上項目3、4はいい情報だった。
ちょっとメモしておく。
まず、例大祭について:
例大祭は文治三年(一一八七)八月十五日に放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬が始行され、これが例大祭の始まりとなっているそうです。
以来絶えることなく八百年以上の歴史と伝統が現在に伝えられているのであります。
神仏習合での鶴岡八幡宮、鶴岡八幡寺の状況:
鶴岡二十五坊というのがあって、鎌倉時代から江戸時代にかけて、鶴岡八幡宮に仕える僧侶(供僧)たちが住んでいたのでした。
僧侶の住まいである坊舎が、約二十五ほどあったそうです。
僧侶たちは、八幡宮の神事に携わり、その運営を支えていたのでした。
それが明治時代になって神仏分離令が出されて、八幡宮寺にあった大塔や鐘楼、経蔵、愛染堂などは無くなってしまったのでした。
「八幡神」(『仏教辞典』):
<八幡大菩薩><八幡大明神>ともいう。古来から広く信仰されてきた神。
九州宇佐氏の氏神にはじまるとされる。穀霊神・銅産の神としてあがめられ、かつ鍛冶とも関係。
八幡の示験は欽明天皇のころとされ、この伝承では応神天皇の垂迹神。応神降誕のとき八流の幡(はた)が産屋をおおった、赤幡八流が虚空になびいたことにもとづき<八幡>というとするから、もとは<やはた>と読んだであろう。
八六〇年(貞観二)大安寺行教(ぎょうきょう)が宇佐八幡を山城国(京都府)石清水(いわしみず)に勧請、石清水八幡宮とした。
源頼義も相模国(神奈川県)鎌倉由比郷に勧請、その子孫源頼朝は小林郷に遷座、鶴岡八幡宮と称し、源氏の氏神としたので、武家社会の守護神として尊崇された。
一方、本地垂迹説に基づいて、八幡の本地を阿弥陀仏とすることが院政時代にあらわれ、鎌倉時代には釈迦仏との見方もあらわれた。
八幡の形像は、菩薩であるところから僧形が多い(僧形八幡神)
九州宇佐地方について(wiki):
宇佐市(うさし)は、大分県の北部、国東半島の付け根に位置する市。
全国4万社余りの八幡宮の総本宮である宇佐神宮があり、特に正月には全国からの初詣客でにぎわう。また本願寺別院(東西とも)も規模が大きく、鳥居前町/門前町を形成している。市内には他にも観光名所があり、県内有数の観光都市となっている。
律令下での行政区分は豊前国宇佐郡(ぶぜんのくに・うさごおり/現在の宇佐市のほぼ全域)。記紀にも、神武天皇が東征の途中で宇佐(『古事記』では「宇沙」、『日本書紀』では「菟狭」)に立ち寄った際、在地の豪族で宇佐国造(宇佐氏)の遠祖であるウサツヒコ(『古事記』では「宇沙都比古」、『日本書紀』では「菟狭津彦」)、ウサツヒメ(『古事記』では「宇沙都比売」、『日本書紀』では「菟狭津媛」)がアシヒトツアガリノミヤ(『古事記』では「足一騰宮」、『日本書紀』では「一柱騰宮」)を造って歓待したというかたちで登場している。
伝統的に宇佐神宮の勢力が強かったこともあり、大勢力となるような武士は現れなかった。中世には佐田氏、赤尾氏、麻生氏、時枝氏、中島氏ほかの小規模国人が割拠する状態で、この地方を統一するほどの武士は出現していない。宇佐郡代を務めた佐田氏が最大勢力ではあり、宇佐郡衆としてまとまって行動することもあったものの(門司合戦、耳川の戦いなど)、基本的にはそれぞれが独立勢力であった。ただ宇佐郡の武士団にとって宇佐神宮への祭祀だけは大事な役目であったようである。