管長日記「西芳寺にお参りして感動」解釈20241016

西芳寺(さいほうじ)は苔寺として知られているだろう。最近、老師が西芳寺にお参りしたという話なのだが、きっかけが驚く。延命十句観音経というのがある。「觀世音 南無佛 輿仏有因 輿仏有縁 仏法僧縁 常樂我淨 朝念觀世音 暮念觀世音 念念従起心 念念不離心」。この和讃というのがあって、南嶺老師の作である。おそらく2011年から2012年くらいまでの作成なのではなかろうか。7文字の句であるので、白隠和讃と同じようなペースなのだが、トーンはまったく違う。また親鸞和讃ともちがって、かなり優しい雰囲気のある和讃だと思う。
その西芳寺は、観覧のときに写経をすることになっているようなのだが、般若心経から延命十句観音和讃に変わったというのだ。それに合わせて、老師の和讃を掲載することになったらしい。
西法寺は、8月初めころ、数日に亘った夢窓国師の話で登場したことを覚えている。円覚寺にとって夢窓国師の京都、鎌倉という幕府を跨ぐ活躍が、いろいろと縁を作っているのだとも思う。老師は「観音様と夢窓国師のご縁であります。お導きいただいた思いでありました」、と結ぶ。

構成
1.建仁寺で修行していたころ(昭和の末)の西芳寺拝観、拓鉢の休憩と後の休日
2.西芳寺の数年前の拝観方法の変更について、延命十句観音経の写経に変更
3.総代さんの西芳寺お参りの報告、イス坐禅会の西芳寺藤田和尚の参加
4.最近のお参り、お庭の手入れ、西芳寺の歴史、写経、老師書籍の販売、藤田和尚との歓談

西法寺のホームページを見ると、歴史や参拝の方法などがわかる。
https://saihoji-kokedera.com/
かなり凝ったホームページ。
参拝には、日々参拝と折々参拝という2つのメニューがある。予約制となっている。
日々参拝の方に写経がある。
折々参拝はじっくり参拝できるようになっている。坐禅会も開催されているようだ。これは気持ちよさそうだ。会員メニューというのもあり、立地的条件、規模と歴史的な知名度、ブランドイメージを上手く捉えているサービス設計なのではなかろうか。

■西芳寺について
wikipediaに詳しく書かれている。

京都市西京区にある臨済宗系単立の寺院。山号は洪隠山。本尊は阿弥陀如来。開山は行基、中興開山は夢窓疎石。もとは天龍寺の境外塔頭。庭園は約120種の苔に覆われ苔寺と知られる。ユネスコ世界遺産登録。

庭園は国指定史跡・特別名勝。夢窓疎石の作庭で上段の枯山水庭園と、下段の池泉回遊式庭園から成る。境内北方の上段に枯山水庭園の石組みがある。夢窓疎石が暦応2年(1339)に築いた日本最古の枯山水の石組み。
西芳寺庭園の有名な苔の庭は、木立の中にある黄金池(心字池)まわりの回遊式庭園。

もともと西芳寺のある場所は飛鳥時代には第31代用明天皇の皇子である聖徳太子の別荘があり、太子作の阿弥陀如来像が祀られていたという伝承がある。

奈良時代に至って、第45代の聖武天皇の勅願を得た行基が天平3年(731)に別荘から寺院へと改めたと伝える。当初は法相宗寺院で「西方寺」と称し、阿弥陀如来を本尊、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍とした。畿内49院の一つであったという。

平安時代初期の大同元年(806)、第51代平城天皇皇子である真如法親王が草庵を結び修行。また空海が黄金池で放生会を行った。

鎌倉時代には摂津守の中原師員(摂津氏の祖)が再興し、西芳寺と穢土寺に分けられた。法然によって浄土宗に改宗。その後に親鸞が愚禿堂を建立し滞在したという。鎌倉幕府第5代執権であった北条時頼が桜堂を建立も、建武年間(1334-1338)、再び寺は荒廃。

暦応2年(1339)に室町幕府の重臣、松尾大社の宮司の摂津親秀が再興した。作庭の名手でもあった夢窓疎石が招かれて臨済宗に改宗され、西方寺と穢土寺は統一。夢窓疎石は「西芳寺」と改めた。「祖師西来」「五葉聯芳」という、達磨に由来。

3代将軍の足利義満が、道服を着用して指東庵で坐禅。西芳寺を模して創建したのが鹿苑寺(金閣寺)。

応仁の乱で焼失した。文明17年(1485)には洪水被災。本願寺の蓮如により再興。

第8代将軍の足利義政により指東庵が再建されている。西芳寺と鹿苑寺を模して創建したのが慈照寺(銀閣寺)である。

江戸時代に2度洪水に見舞われ荒廃。庭園が苔で覆われるようになるのは江戸時代末期。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈により、境内地は狭められて荒廃。1878年(明治11年)再興、1928年(昭和3年)より庭園が一般公開。1977年より事前申込制の拝観。

Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズは、お忍びで家族とともに西芳寺をよく訪れていたという。

テセウスの船のようなお寺だろう。

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